摂津源氏(せっつげんじ)とは、摂津国の多田に根拠地を置いた清和源氏の嫡流(多田源氏と呼ばれることもある[1])。
清和天皇の第六皇子貞純親王の子・経基王(源経基)の子・源満仲の嫡男である源頼光を祖とし、清和源氏の嫡流として多田荘を領した。弟には源頼親(大和源氏の祖)、源頼信(河内源氏の祖)などが居る。摂津源氏は、摂津国や美濃国で武士団を形成し、多田氏、馬場氏、能勢氏、土岐氏、山県氏らを輩出した。
「朝家の守護」と称された満仲、頼光の流れを汲む摂津源氏は、代々、大内守護(内裏警備、天皇護衛)の任に就いた。源頼光は、満仲伝来の本拠地の摂津国川辺郡多田(現・兵庫県川西市多田)の地を相続し、酒呑童子、茨木童子討伐、土蜘蛛退治の伝説を残したが、摂津源氏は、もっぱら京で活動する武士であり、公家の日常に奉公する機会も多く、武はもとより文や和歌に長じた。
頼光の子源頼国は讃岐守や美濃守を受領し、本拠地・多田庄は嫡子頼綱に継承された(多田源氏)。また頼綱の三男国直や弟国房が美濃に土着した(美濃源氏)。
頼綱の子明国・仲政兄弟は揃って蔵人に任じられるなどして栄えたが、明国の孫頼盛・頼憲兄弟の代には仕えていた藤原忠通・頼長の兄弟争いにおいてそれぞれに別れ、保元元年(1156年)の保元の乱で戦った。また、鳥羽法皇の近習となった源光保(国房の子孫)が正四位下になり昇殿を果たした。
平治元年(1159年)の平治の乱では、二条天皇や美福門院に近い立場にあった仲政の子源頼政が、平清盛方に付き生き残った。
平氏政権下で清和源氏最高位の従三位となった源頼政(馬場頼政)は、摂津国の渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠地とする滝口武者である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党とし、彼は父の仲政と同じく馬場を号した。しかし、治承4年(1180年)以仁王の挙兵に呼応して平重衡・平維盛と戦い、討ち死した。
源頼政の孫・源有綱は、頼政の知行国であった伊豆にあり難を逃れ、直後に同地で配流の身であった源頼朝が挙兵するとその麾下に入った。有綱は源義経に付属し、頼朝と義経が対立した後も都を落ちる義経の一行に加わった。文治2年(1186年)6月16日、大和国宇陀郡で義経の残党を捜索していた北条時定と戦い自害した。
一方、多田源氏の嫡流多田行綱(頼盛の嫡子)は、安元3年(1177年)の鹿ケ谷での謀議を密告したとされる。その後、源平合戦(治承・寿永の乱)では一族郎党を率いて源義経軍の一翼を形成し、一ノ谷の戦いでは抜群の戦功を挙げたが、平家滅亡後源頼朝から疎まれ、多田の所領を没収された。
兵庫県川西市にある満願寺の境内に、源国房・源光国父子(美濃源氏)、源明国・源行国父子(多田源氏)、源仲政(馬場氏)、源国直(山県氏)、源国基(能勢氏)ら摂津源氏の武将7人の供養塔がある。
※点線は養子