徳川 誠(とくがわ まこと、旧字体:德川 誠󠄁、1887年(明治20年)10月31日 - 1968年(昭和43年)11月11日)は、日本の実業家、政治家。爵位は男爵。
浅野セメント株式会社監査役、貴族院議員などを歴任した。
来歴
生い立ち
江戸幕府第15代征夷大将軍・徳川慶喜の九男。幼少時に指物商の小長井勝次郎の元へ里子に出される(里子より戻って慶喜に挨拶をした際に、町方言葉で「チャン」と慶喜のことを呼び、周囲が大慌てした[1])。1891年(明治24年)4月、姉・英子とともに静岡高等小学校付属幼稚園に入る。1897年(明治30年)9月、弟・精とともに静岡から東京に移り、学習院に入学する。1908年(明治41年)3月、学習院中等科を卒業。同年、アメリカ合衆国ミシガン州のホープ・カレッジ(英語版)に留学。後に山本重礼の養子となったものの、離籍する。さらに分家して一家の戸主となった。
実業家として
アメリカから帰国後、横浜正金銀行に勤務した。アメリカやフランスの支店に赴任し、大正9年に帰国した。帰国後、横浜正金銀行を退職した。その後、浅野セメント監査役に就いた。その間の大正2年(1913年)11月5日には男爵を授けられた。昭和21年(1946年)5月、貴族院男爵議員補欠選挙にて貴族院議員に選出された[2][3]。貴族院では公正会に所属し、昭和22年(1947年)5月2日の貴族院廃止まで務めた[2]。墓所は谷中霊園の寛永寺墓地。
栄典
系譜
脚注
- ^ 女聞き書き 徳川慶喜残照
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』78頁。
- ^ 『官報』第5815号、昭和21年6月5日。
- ^ 『官報』第382号「叙任及辞令」1913年11月6日。
- ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1926年12月9日。
- ^ 『官報』第2394号「叙任及辞令」1934年12月22日。
参考文献
- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)、1939年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目