宮内卿(くないきょう)または後鳥羽院宮内卿(ごとばのいんくないきょう、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の女流歌人。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。父は右京権大夫源師光(大納言師頼の子)、母は後白河院の女房安芸と言われる。兄に源泰光、源具親がいる。
経歴
生涯については、はっきりしたことがほとんどわからない。その歌才によって後鳥羽院の召しにあい院のもとに女房として出仕、1200年(正治2年)から1204年(元久元年)までの短期間に、後鳥羽院歌壇で活躍し、『新古今和歌集』以降の勅撰集、歌合等に多数の作品を残している。以降の消息は不明で、『無名抄』や『正徹物語』の記述から、二十歳前後で夭折したとする説が一般的。
逸話
- 若手女流歌人として、俊成卿女と宮内卿が並び称される存在だった。宮内卿は、歌合のような晴の席の前には、草子や巻物をとり広げ、灯りをともして夜も昼もなく予習に励んだ。和歌に熱中しすぎて体をこわし、父から「なにごとも命あってのこと」と諌められたが、それでも言うことを聞かず、ついに若くして命を落とした[1]。二十歳前だったという[2]。「宮内卿は血を吐きしといへり[3]」。
- 母である安芸は琴の名手、安芸の父は絵師巨勢宗成で、これらが宮内卿の絵画的で印象鮮明な作風に影響しているという見方がある[4]。
- 千五百番歌合に際し、並み居る大家ベテランの中に混じって、宮内卿はまだ実績はないが期待していると、後鳥羽院から特に名前を挙げて激励され、
面うち赤めて 涙ぐみて候ひけるけしき 限りなき好きの程も あはれにぞ見えける
さてその御百首の歌 いづれもとりどりなる中に
薄く濃き野辺のみどりの若草に 跡まで見ゆる雪の村消え
草の緑の濃き薄き色にて 去年のふる雪の遅く疾く消ける程を おしはかりたる心ばへなど
まだしからん人は いと思ひ寄り難くや
— 『増鏡』 第一 おどろの下
- と期待に違わず評価を得た。宮内卿はこの歌で「若草の宮内卿」の異名をとった。『増鏡』の作者は、もし彼女がもっと長く生きたなら、どれだけ目に見えぬ鬼神をも動かしたことだろうと、その才能を惜しんでいる[5]。
関路花を
あふ坂や木すゑの花を吹からに 嵐そかすむ関のすきむら
— 『新古今和歌集』 巻第二 春歌下
- この「あらしぞ霞む」は「主ある詞[* 2]」とされ、宮内卿の名声を高める一助となった。
- 後鳥羽院からの高い評価は、時代不同歌合の巻末に和泉式部との番で宮内卿を配した[* 3]ことからも窺える。
百四十八番
左 泉式部
くらきよりくらき道にそ入ぬへき はるかに照せ山のはの月
右 宮内卿
色かへぬ竹のはしろく月さえて つもらぬ雪をはらふ秋風
百四十九番
左
もろともに苔の下にはくちすして 埋もれぬるをみるそ悲しき
右
霜をまつまかきの菊の宵のまに 置まよふ色や山のはの月
百五十番
左
物思へはさはの蛍も我身より あくかれ出る玉かとそみる
右
からにしき秋のかたみや瀧田山[* 4] ちりあへぬ枝に嵐ふく也
— 『時代不同歌合』
作品
- 勅撰集
- 定数歌・歌合
名称 |
時期 |
作者名表記 |
備考
|
新宮三首歌合 |
1200年(正治2年)11月7日 |
|
『明月記』記事のみ
|
正治後度百首 |
1200年(正治2年) |
|
|
老若五十首歌合 |
1201年(建仁元年)2月 |
宮内卿局 宮内卿 |
勝12負18持19
|
通親亭影供歌合 |
1201年(建仁元年)3月 |
女房宮内卿 |
勝2負2持2
|
新宮撰歌合 |
1201年(建仁元年)3月 |
宮内卿 後鳥羽院官女師光女 |
負2持1
|
鳥羽殿影供歌合 |
1201年(建仁元年)4月 |
女房宮内卿 |
負1持2
|
和歌所影供歌合 |
1201年(建仁元年)8月3日 |
女房宮内卿 |
西園寺公経と番い勝2負1持3
|
八月十五夜撰歌合 |
1201年(建仁元年) |
宮内卿 |
勝4持2
|
和歌所影供歌合 |
1201年(建仁元年)9月13日夜 |
宮内卿 |
勝2無判1
|
仙洞句題五十首 |
1201年(建仁元年年)12月 |
宮内卿 |
|
石清水社歌合 |
1201年(建仁元年)12月28日 |
宮内卿 |
慈円と番い負1
|
仙洞影供歌合 |
1202年(建仁2年)5月26日 |
女房宮内卿 |
藤原俊成と番い負3
|
水無瀬恋十五首歌合 |
1202年(建仁2年)9月13日 |
女房宮内卿 |
勝3負10持2
|
若宮撰歌合 |
1202年(建仁2年)9月26日 |
女房宮内卿 |
藤原定家と番い持2
|
水無瀬桜宮十五番歌合 |
1202年(建仁2年)9月29日 |
宮内卿 |
藤原定家と番い持2
|
千五百番歌合 |
1202年(建仁2年) |
宮内卿 |
|
影供歌合 |
1203年(建仁3年)6月16日 |
女房宮内卿 |
勝2負1
|
八幡若宮撰歌合 |
1203年(建仁3年)7月15日 |
女房宮内卿 |
勝1負2持1
|
春日社歌合 |
1204年(元久元年)11月 |
女房宮内卿 |
俊成卿女と番い持3
|
- 私撰集等
- 私家集
脚注
注釈
- ^ 吹からに野への草木のしほるれは むへ山風をあらしといふらん(『古今和歌集』)
- ^ 本歌取りが当たり前の和歌の世界でも、特に創作性の強い表現は、安易に模倣することが戒められる。
- ^ 内省的な和泉式部に向けて、冴えわたる秋の叙景を三首たたみかけるところに、若くして去った彼女の才を誰よりも理解していたのは自分なのだという後鳥羽院の思いがある。
- ^ 『新古今和歌集』巻第五 秋歌下 「立田山」。
- ^ a b c いずれも配列や詞書から「後鳥羽院の」宮内卿であることが明白。
出典
参考文献
- 神尾暢子 『纂輯後鳥羽院宮内卿歌集稿』 王朝叢書 1970年 中央図書出版社
- 脇谷英勝 「宮内卿と秀能 -新古今和歌の一位相-」 『帝塚山大学論集』6, 159-186 1973年11月 帝塚山大学
- 岡村満里子 「後鳥羽院宮内卿周辺」 『国文』1983年1月
- 菅野扶美 「むれゐて歌ふ古柳のこゑ―正治二年後度百首宮内卿詠と今様の古柳について」 『東横国文学』 28 32 1996年3月 東横学園女子短期大学国文学会
- 左海美佳 「宮内卿の歌の世界」 『古典研究』 25 9,21-29 1998年5月20日 ノートルダム清心女子大学古典叢書刊行会
- 難波宏彰 「宮内卿歌の歌枕についての一考察」 『二松 : 大学院紀要』15, B1-53 2001年3月31日 二松學舎大学
- 堀井理恵 「宮内卿和歌注釈断章―「水無瀬恋十五首歌合」より」 『日本文学女性へのまなざし』 17,33-49 2004年9月30日 風間書房
- 小幡美佳 「宮内卿の歌風 : 歌合判詞における「めづらし」を中心に」 『赤羽淑先生退職記念論文集』 2005年3月 赤羽淑先生退職記念の会
- 長嶋和彦 「宮内卿の感性と創造―「薄くこき」歌の生成」 『宇大国語論究』 16 13,54-66 2005年4月1日 宇都宮大学国語教育学会
関連項目