平本 淳也(ひらもと じゅんや、1966年6月14日 - )は、作家、実業家。活動家、元ジャニーズJr.。
小学4年生の10歳の時に、東京12チャンネル(現:テレビ東京)『日曜ビッグスペシャル 全日本ちびっこ歌まね大賞』に沢田研二の歌まねで出場し『勝手にしやがれ』(1977年5月21日発売)と『サムライ』(1978年1月21日発売)を披露。その後、同じく10歳の時に東京宝映テレビ(現:宝映テレビプロダクション)に所属して芸能界入りする[1]。
1980年[2]、13歳の時ジャニーズ事務所に写真と履歴書を送ったことをきっかけにジャニーズJr.になり、18歳までの間「合宿所」と呼ばれていたマンションに出入りしていた[3]。
「ジャPAニーズ・ジュニア」に初期メンバーとして参加する[4]等、田原俊彦、近藤真彦、シブがき隊、少年隊らのバックダンサーを務めながら、『第7回 ABCヤングアイドル野球大会』(1982年6月)や映画『あいつとララバイ』(スネーク役/1983年12月)、ドラマ『胸さわぎの放課後』(バスケット部員役/1983年)、『新・熱中時代宣言』第6話(1986年5月10日)に出演した。
1985年[5]、18歳でジャニーズ事務所を退所した[6]。
1986年、ジャニーズ事務所を退所[7]し、イベント企画会社を起業。
1989年4月より、アイドルグループ「新・光GENJI」(のちに「SHADOW」と改名)に参加してCDやビデオをリリース[8]。東名阪を中心にテレビやコンサート活動を行う。同グループは1990年3月に解散し、同年、平本はプロデューサーとしてアイドルユニット「EACAPE」を結成。森脇健児と山田雅人のW司会で知られた関西の人気番組『ざまぁKANKAN!』(読売テレビ)や、『おはよう朝日です』(朝日放送テレビ)などに出演する。また、『ざまぁKANKAN!』で共演したアイドル成知由梨とコンサート共演(摂津市民ホール)した。
同グループ解散後、1994年からは「維新組」のメンバーとしてアイドル活動を行う。維新組としては日本青年館でデビューイベントを開催し、フジテレビの番組イベント『LIVE UFO』にレギュラー出演したのち、解散。
2020年12月、横浜マリンエフエムのラジオ番組『ロックスタァ松本邦彦とカルチャースタァ平本淳也のYOKOHAMA湾岸スタァ』のメインパーソナリティに就任した。
2022年5月、小江戸FMのラジオ番組『ヤギっちの伝えたい言葉in川越』のメインパーソナリティに就任した。
2023年3月7日、BBCのテレビチャンネル「BBC Two」で放映された「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル(ドイツ語版)」に出演[9][10]。同番組はジャニー喜多川性加害問題を扱ったドキュメンタリーであり、5年前の制作当初から協力してきたもの[11]。
2023年7月9日、石丸志門・二本樹顕理・中村一也らとともに「ジャニーズ性加害問題当事者の会」を決起し、代表に就任[12]。この中で、石丸と共に東山紀之および藤島ジュリー景子と面会した際、「SMILE UPに入りたい、手を組んでやって行きましょう」「補償の手伝いをしたい、一緒に飲みに行きたい」と発言[13][14][15]。この発言もあり、当初からの「ジャニーズ事務所に対するスタンスの違い」もあって、強硬派の志賀泰伸や大島幸広らが強く反発し、会を脱会した[16][17][18][19][20]
SNSやメールでの誹謗中傷の百数十件について県警に相談しており、そのうち特に悪質な1件について神奈川県警に刑事告訴し受理された[21][22]。
2024年1月15日、衆議院会館での『ジャニーズ性加害問題当事者の会』記者会見を体調不良の為に欠席した。石丸副代表は「長く患っている強迫性障害、パニック障害のほか、PTSDとうつの診断結果が出されているため、登壇を控えるべきと判断」したと報告し「席を設けておりませんが、本日の記者会見の企画や構成、原稿作成など裏方業務に徹していることはお知らせしておきます」とした[23]。
2024年2月1日、平本が1月31日付で代表を辞任していたことが判明した[24]。辞任の理由について石丸副代表は、「体調の面が大きい。かなり悪いので、代表をこれ以上続けられないということです。あとは(平本氏が)身を引くことにより、当事者の会と『SMILE-UP.』(旧ジャニーズ事務所)との交渉が進むのではないかという判断もあるそうです」」と明かした[25]。今後、同会には新代表は置かず、引き続き石丸が副代表を務める[25]。補償問題などの解決を見届けることは継続して行う[25]。
2024年2月2日、ジャニー喜多川元社長による性加害問題に関する新たな声明を発表した[26]。