平 時実(たいら の ときざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。桓武平氏高棟王流、権大納言・平時忠の長男。官位は従三位・左中将。讃岐を号す。
経歴
仁安元年(1166年)従五位下に叙爵されると同時に越後守に任官する。仁安3年(1167年)従五位上、嘉応元年(1169年)正五位下と昇叙されたのち、嘉応2年(1170年)讃岐守、承安2年(1172年)左近衛少将に任ぜられた。
少将と讃岐守を務めながら、承安3年(1173年)従四位下、安元2年(1176年)従四位上と昇進を続ける。その後、寿永元年(1182年)正四位下、寿永2年(1183年)4月に左近衛中将に叙任される。しかし、同年7月の平家の都落ちに従って解官された。
元暦2年(1185年)3月に壇ノ浦の戦いで捕らえられて京に戻り、5月に周防国への流罪が決まったが、義兄弟となっていた源義経に接近して配所に赴こうとしなかった。11月に義経が源頼朝と対立して京を退去するとこれに同行するが、摂津国大物浦で船が転覆し、離散して京に戻る途上で村上経業の弟・禅師経伊に捕らえられた[1]。
その後、鎌倉に護送され、文治2年(1186年)正月に上総国に配流された。文治5年(1189年)に赦免されて帰京。建暦元年(1211年)には従三位に叙された。建暦3年(1213年)1月29日薨去、頓死であったという[2]。
公家でありながら「心猛き人」と評された[3]。
官歴
『公卿補任』による。
系譜
関連作品
- テレビドラマ
脚注