常如(じょうにょ)は、江戸時代初期の浄土真宗の僧。東本願寺第十五代法主[1] 。
生涯
本ページでは、年齢は、数え年。日付は、暦の正確性、著作との整合を保つため、貞享元年12月30日(1685年2月3日[2] )までは、宣明暦表示。 貞享2年1月1日(1685年2月4日)からは、貞享暦表示とする(生歿年月日を除く)。
寛永18年5月4日[3](1641年6月12日)、東本願寺第十四代 琢如[4]の長男として誕生。母は近衛信尋の娘。
寛文4年(1664年)12月、琢如の退隠により第十五代法主を継承する。
寛文7年(1667年)、本堂改築を発願。
- 寛文10年(1670年)、本堂落慶。
延宝6年(1678年)、弟の一如を法嗣[5]とする。
延宝7年(1679年)、法主を譲り退隠する。
元禄7年5月22日(1694年6月14日)、54歳にて示寂。
脚注
- ^ 当時の正式名称は「本願寺」(昭和62年〈1987年〉以降は、「真宗本廟」が正式名称。詳細は、宗本一体を参照)。本願寺派本山の正式名称も「本願寺」(通称、「西本願寺」)であるため、区別するため「東本願寺」と通称されるので、「東本願寺第十五代法主」と表記する。
- ^ 貞享元年12月30日は、グレゴリオ暦では年が明けて、1685年2月3日。
- ^ 『日本仏家人名辞書』(光融館、1903年)353頁
- ^ 「琢」は、「豕」に「ヽ」を入れた旧字体(「硺」の「石偏」を「王偏」にしたもの)が正式な表記。
- ^ 法嗣…法主後継者のこと。
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東西分立前 (本願寺の歴史) | |
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東西分立後 |
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東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている『宗憲』第十三条。 記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。
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東西分立前 | |
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東西分立後 |
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略称 - 「西」=本願寺派、「東」=大谷派、「東本」=東本願寺派、「東山」=(東山上花山)本願寺、「嵯峨」=(嵯峨)本願寺 |