山田 常典(やまだ つねすけ[注釈 1]、文化5年(1808年)8月 - 文久3年7月7日(1863年8月20日))は、江戸時代後期の国学者。本姓は平井。名は晋。通称は常介。号は蕗園、臣木舎。
伊予吉田藩に生まれる。幼くして世子の侍講となるが、20歳の頃に家督を弟に譲って各地を遊学し、江戸で本間游清のほか、海野游翁などに学ぶ[4][注釈 2]。
品川の東海寺で賀茂真淵の法筵を開いた縁により、紀州藩家老の水野忠央に仕える[6]。桜田門外の変により忠央が6月に失脚して新宮城に幽閉されることになり、10月に常典も新宮に赴いて隠棲した[7]。
文久3年没。新宮城外南谷に葬られた[7]。
忠央に仕えて以降は、漢学所督学として「丹鶴叢書」の編集に参画した[注釈 3]。これは歌集・物語・医書・辞書・系譜・図録・行事・縁起などの古書を収集したもので[8][9]、内容量は7帙71巻152冊に及び、後に131冊にまとめて刊行された。厳密な校訂に加えて印刷・製本も見事で[8][9]、弘化5年(1848年)2月5日には徳川家慶に献上されている。
国語学史上における功績としては、先人国学者の学問顕彰として、楫取魚彦の『古言梯』の増補改訂版に該当する『増補古言梯標註』がある。村田春海・清水浜臣による『古言梯再考増補標註』を基にしているが[注釈 4]、小山田与清による手沢本を参照していることも指摘されている[10]。弘化3年(1846年)に成立し、同4年(1847年)に刊行されたが、明治期に刊行された版も存在する[11]。