尾張 浜主(おわり の はまぬし)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族・楽人。姓は連[1]。位階は従五位下。大戸清上らと、日本雅楽の形成に重要な役割を果たす。
孝謙朝(天平勝宝元年〔749年〕 - 天平宝字2年〔758年〕)において『採桑老』を舞い、天皇の勅により『蘭陵王』の桴を改めたという[2]。
天長10年(833年)仁明天皇即位大嘗祭において舞を舞う。承和3年(836年)遣唐使に随行して唐に渡り、舞の誤謬を正し龍笛の底を極めて、承和6年(839年)8月に帰国したとする伝もある[3]。なお、同年正月に外従五位下に叙せられている。
承和12年(845年)既に113歳の高齢であったが、大極殿で行われた最勝会に際して、舞(和風の長寿楽、別名「春鶯囀」[4])を製作し、自ら上表して演じることを請い、1000人を超える観覧者の前で舞った。フグの模様のようなシミがある老人の姿で、起居するのも困難な様子であったが、曲が流れると少年のように舞った。四方の観客は皆「浜主は本当のまさに伶人(楽舞の人)である」と言ったという[5]。その翌々日には仁明天皇に召されて清涼殿でも長寿楽を演じ、天皇は感心して誉め称え、左右の者は感涙し、天皇から御衣を下賜された[6]。翌承和13年(846年)再び天皇に召されて清涼殿で舞を舞い、天皇にその高齢を憐れまれて、内位の従五位下に叙せられている。
なお、愛国百人一首に「翁とて侘やは居らむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ」の一首が採られているが、これは先述の承和12年(845年)の清涼殿での舞の後に詠んだものである。
『続日本後紀』による。