小田嶋定吉

おだじま さだきち

小田嶋 定吉
生誕 (1890-09-18) 1890年9月18日
岩手県和賀郡岩崎村
死没 (1972-12-19) 1972年12月19日(82歳没)
死因 肺炎
国籍 日本の旗 日本
出身校 早稲田大学文学部英文科
職業 実業家ジャーナリスト
栄誉 勲二等旭日重光章(1965年)
テンプレートを表示

小田嶋 定吉(おだじま さだきち、1890年(明治23年)9月18日 - 1972年(昭和47年)12月19日)は、日本の実業家日本経済新聞社元社長。

経歴・人物

岩手県和賀郡岩崎村出身(現:北上市[1]1916年早稲田大学文学部英文科卒業[1]万朝報で記者としての勤務を経て、日経の前身である中外商業新報社に入社した[1]

常務を経て、公職追放を受けた小汀利得に代わり、1947年から日本経済新聞社代表取締役を務め、翌年には社長に就任した[1][2]

共同通信社理事会長[3]日本短波放送社長、日本教育テレビ代表取締役などを歴任し[4][1]1951年から55年まで日本新聞協会会長を務めた[1][5]1965年勲二等旭日重光章を受章した[1][6]

1972年12月19日肺炎のために死去[7]。82歳没

脚注

参考文献

  • 人事興信所 編『人事興信録 第26版 上』人事興信所、1971年。 

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!