寧宗(ねいそう)は、南宋の第4代皇帝。諱は拡(かく)。光宗の次男。
乾道4年(1168年)、当時に恭王であった光宗と李氏の間に生まれた。淳熙5年(1178年)、明州観察使を授けられて英国公に封ぜられ、淳熙12年(1185年)に安慶軍節度使・平陽郡王となった。光宗の即位後は少保・武寧軍節度使を拝命され、嘉王に進封した。紹熙年間には嘉王を皇太子に立てようとする光宗と、これに消極的だった寿皇(孝宗)間の葛藤が高まり、立場が微妙になったりもした。
紹熙5年(1194年)、病弱な父が趙汝愚と太皇太后呉氏によって廃位になると、皇帝に即位した。政変の過程で趙汝愚に協力した韓侂冑は、韓皇后の同族である縁故で大きな権力を有するようになり、趙汝愚を失脚に追いやって独裁体制を確立した。この時、反対勢力の一人でもある朱熹も共に追放して、その理学を禁止している(慶元党禁)。このような強引な手法で政敵らを排除する方針に怨嗟の声は高まっていたが、開禧元年(1205年)に韓侂冑が平章軍国事に任ぜられながら、なおも実権を掌握され続けた。韓皇后が死去して皇室の後ろ盾を失った韓侂冑は、権力維持のため金に対する大規模な北伐に着手した。しかし情報や準備が不十分なこともあって戦況はすぐに不利となり、金と内通した四川の呉曦(中国語版)が反逆を起こした。これに乗じて、新しく皇后となっていた楊氏の義兄の楊次山(中国語版)と礼部侍郎の史弥遠は、韓侂冑を誅殺して彼の首級を金に送り、厳しい条件も甘受して速やかに和議を結ぶことに成功し、朝廷の実権を掌握した(開禧用兵)。
治世後期の国政は宰相として臨んだ史弥遠が専断する状況になった。寧宗には9人の息子がいたが、いずれも夭逝した。このため、趙徳昭[1]の末裔である趙詢(中国語版)(景献太子)を宮中に入れて養育し、開禧3年(1207年)に皇太子に立てた。嘉定13年(1220年)、趙詢が亡くなると、代わりに趙徳芳[2]の九世の孫で、元は寧宗の従兄弟にあたる沂王趙抦ちょうへい[3]の後嗣であった趙竑(中国語版)(趙希瞿の実子)を後継者とした。しかし趙竑ちょうこうは史弥遠を牽制しようとする動きを見せて警戒を買い、趙徳昭の九世の孫にあたる趙昀ちょういん(後の理宗)を民間から探し出した史弥遠は、秘密裏に陰謀を画策した。
嘉定17年(1224年)、寧宗の崩御に際して遺詔を偽造した史弥遠の工作により趙竑は廃黜され、趙昀が擁立されている。
太祖960-976 / 太宗976-997 / 真宗997-1022 / 仁宗1022-1063 / 英宗1063-1067 / 神宗1067-1085 / 哲宗1085-1100 / 徽宗1100-1125 / 欽宗1125-1127
高宗1127-1162 / 孝宗1162-1189 / 光宗1189-1194 / 寧宗1194-1224 / 理宗1224-1264 / 度宗1264-1274 / 恭帝1274-1276 / 端宗1276-1278 / 祥興帝1278-1279
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