富山 妙子(とみやま たえこ、1921年11月6日[7] - 2021年8月18日[8])は、日本の画家および文筆家である。
太平洋戦争後まもない1950年代から1960年代は炭鉱をテーマに絵画や執筆活動をし、1970年代以降は韓国の民主化運動勢力と連帯し強制連行や従軍慰安婦など日本国家の戦争責任を問う作品を多数制作する。2021年6月には韓国政府から国民勲章を受章している[8][9][10][11][12][13]。
富山妙子は1921年11月6日に淡路島出身の両親から神戸で生まれた[14]。11歳の時に英タイヤ会社に勤める父親について満州に移住した[8]。少女時代を1930年代の満州大連とハルビンで過ごす。1938年にハルビン女学校卒業した。同年に帰国後、女子美術専門学校(現・女子美術大学)に入学して間もなく退学処分を受ける[15]。1939年に美術評論家の外山卯三郎が開いた画塾美術工芸学院へ通うようになる[16][14]。戦後、1950年代に入り、画家の社会的参加として、筑豊炭鉱や鉱山をテーマに労働者を描く。1970年代には韓国の詩人金芝河(キム・ジハ)[17]の詩をテーマとして、絵と詩と音楽によるスライド作品を自主制作するために、火種工房(ひだねこうぼう)[18]を設立する。近作による展覧会が韓国および欧州各地で開催されている。
1978年、民主化運動で収監中だった金芝河の詩をモチーフにした詩画集の出版とスライド化により韓国への入国が禁止された[注釈 1]。
また日本においても西洋画中心の画壇において活動が「政治的」であると批判され1976年までに美術団体を相次いで退会、またマスコミの自主規制で出演番組が放送を見送られるなど日韓双方で活動の場所を失う。
発表場所に窮した富山は音楽家の高橋悠治をはじめとした様々な文化人・知識人と協働して複製可能なメディア(スライドや映画)による巡回上映に移行する[6]。 1977年にJAALA美術家会議の結成に賛同し活動を共にする。
日本の戦争責任とアジアを主題に絵と文筆で活動。1984年『はじけ!鳳仙花』を原作として、土本典昭が映画「はじけ鳳仙花 わが筑豊、わが朝鮮」を製作した。
同世代である社会学者の李効再(韓国語版이효재)[19]と交流があり、富山が「恨」の概念を芸術で表現していることにクリスマスカードで感謝を述べている[5]。
富山先生、I deeply appreciate your humanism and art. Thank you very much for your art work expressing Korean people’s 恨.ほんとうにありがとうございます.李効再拝 — 李効再(韓国語版이효재)、「境界を越える:富山妙子の人生と芸術」資料集[5]
2010年11月26日から12月11日まで、東京YWCA会館において絵画展『アジアを見つめて 植民地と富山妙子の画家人生 〜日韓併合100周年企画〜』が開催される。11月30日には企画の一環として辛淑玉と対談した[20]。
2021年6月、韓国の民主化運動に貢献したとして、韓国政府より大韓民国国民褒賞(国民勲章、韓国語版국민훈장)が授与される[21]。
2021年8月18日、老衰のため、東京都内の自宅で死去した[8]。99歳没。
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