安井 仙角(やすい せんかく、延宝元年(1673年) - 元文2年1月4日(1737年2月3日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元安井家の四世。会津生れ、三世安井知哲門下、八段。五世春哲仙角、七世仙角仙知と区別して古仙角、親仙角とも呼ぶ。
二世安井算知の門人であったが、元禄5年(1692年)に五段で安井知哲の跡目となり、この年から御城碁に出仕。し、享保18年(1733年)までに35局を勤めた。元禄13年に知哲が病没し、家督を継いで四世安井仙角となる。
宝永2年(1705年)の御城碁で、四段格ではあるが進境著しい15歳の本因坊道知と対戦することになったが、道知の後見であった井上道節因碩より、六段の仙角と互先での対局を申し入れられる。仙角は寺社奉行に不服状を提出、道節は争碁の願書を出し、さらに稲葉丹後守、久世大和守らに働きかけて先相先での対局とする。11月2日に行われた下打ちは翌明け方までかかって行われ、中盤までは仙角が優勢に進めたが、終盤に道知がヨセの妙手で逆転して1目勝となった。続いて道知先相先での十番争碁を命じられ、翌年道知先番15目勝、白番3目勝と連勝し、仙角は互先の手合を了承して争碁を中止とした。「宝永の争碁」と呼ばれる。
享保5年(1720年)には井上家、林家とともに道知を準名人(八段)に推挙し、翌年名人碁所就位の願いに同意。同年、自身も八段に進む。
享保8年(1723年)に上野宮祟宝院宮[要検証 – ノート]の求めで道知らとともに長谷川知仙の七段を承諾し、享保12年に上野宮に願って知仙を跡目とする。しかし知仙は翌年死去し、享保20年に門下の田中春哲を再跡目とする。仙角は2年後に没し、春哲が五世安井仙角となった。
仙角は会津松平家より50俵の扶持と屋敷を拝領していたが、知仙を跡目としてからは浜町に移って教場を設けた。またそれまで京都寂光寺を安井家墓所としていたのを、江戸深川浄心寺に移した。
御城碁は、1733年まで38局を勤めた。