堀田 正衡(ほった まさひら)は、江戸時代後期から末期の大名、若年寄。下野佐野藩主。堀田家正高流分家7代。
生涯
下野佐野藩主(当時は近江堅田藩主)堀田正敦の五男。寛政8年(1796年)4月19日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月11日、従五位下・左京亮に叙任。後に摂津守に改める。天保3年(1832年)1月19日、父正敦の死去により家督を継いだ。天保5年(1834年)4月28日、奏者番に就任する。天保7年(1836年)9月4日、若年寄に就任する。天保14年(1843年)10月24日、退任して従四位下に昇進する。安政元年(1854年)に60歳で死去した。長男の正修は既に没していたため、その子・正頌が跡を継いだ。
人物
学問熱心であった。特に貝類の研究に熱心で、『観文介譜』を著している。絵画にも秀でた才能を残すなど文学的に優れていた。正衡の家臣・高橋源十郎の子・由一は日本初の洋画家となっているが、これは正衡の影響が大きいとも言われている。
系譜
父母
正室
側室
子女
関連作品
脚注
- ^ 本作での諱は正国。ただし、実在の正衡は遠山景元よりも2歳年下であったため、実際は彼の実父である正敦をモデルにしたのではないかとする向きもある。