坪内 利定(つぼうち としさだ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大身旗本。尾張国松倉城主。『系図纂要』に記載の坪内利之と同一人と思われる。
尾張葉栗郡松倉[1]生まれという。鉄砲術に優れていたという。戦国期の松倉城は尾張と美濃の境にあり、戦略上重要な地であった。利定は織田信長に仕え、境川(木曽川)沿いの国人を纏め上げる役割を担っていたという。国人衆には、蜂須賀正勝、前野長康、大沢次郎左衛門、松原内匠、日比野六太夫、青山新七などがいたという。当時これら国人衆を川並衆と称した歴史的事実は無い。
永禄2年(1559年)、拾阿弥を斬殺した罪で出仕停止処分を受け浪人暮らしをしていた前田利家を庇い、しばらく松倉城に住まわせたという。伝承によれば、永禄9年(1566年)、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による墨俣城築城の際、木曽山中より木材を流し、松倉にて陸揚げ、加工を施してから再び川に流し、墨俣に送るという、重要な役割を果たす。これが稲葉山城攻略の大きな手助けになったとされる。播磨国平定戦(高倉城攻め)で、秀吉が利定の軍功を他人の軍功と見誤った事などから、信長の死後、秀吉と不和となり、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは秀吉の直臣としてではなく、秀吉方に属した金山城主・森長可の下に付く。しかし、当合戦で長可が戦死したために浪人となり、天正18年(1590年)に徳川家康に召しだされて仕え、上総国・武蔵国において3,400石を領した。
慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐に鉄砲隊を率いて参戦。関ヶ原の戦いでは東軍東海道本隊(徳川隊)に属し、鉄砲隊を率いて功績を挙げる。この功績により、美濃羽栗郡・各務郡20村の6,500石を治める大身旗本となり、同年、拠点を松倉城から各務郡新加納の新加納陣屋に移す。坪内氏は明治初期の版籍奉還まで大身旗本として存続する。