2代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、明治39年(1906年)2月15日 - 昭和61年(1986年)2月17日)は日本の実業家、政治家。坂口合名会社・代表社員会長。米子商工会議所名誉会頭。衆議院議員。幼名清太郎。
略年譜
- 2月15日 - 鳥取県米子市尾高町に初代坂口平兵衛の長男として生まれる[1]。
- 3月 - 鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)卒業[1]。
- 3月 - 明治大学政治経済学部卒業[1]。
- 11月 - 坂口商店監査役[1]。
- 12月 - 広島電気(現・中国電力)監査役[1]。
- 2月 - 米子製鋼所取締役社長[1]。
- 6月 - 坂口家家督相続、煙草元売捌人指定、財団法人坂口奨学館長、坂口豊蔵死去[1]。
- 10月 - 山陰土地取締役[1]。
- 1月 - 皆生温泉土地取締役[1]。
- 2月 - 坂口合名会社代表社員社長[1]。
- 4月 - 日本製絲常任監査役[2]。
- 7月 - 米子交通取締役[2]。
- 10月 - 日本畜産協会評議員[2]。
- 12月 - 坂口合名本社ビル竣工[2]。
- 10月 - 隠岐電気監査役[2]。
- 1月 - 米子銀行取締役[2]。
- 3月 - 米子商工会議所顧問[2]。
- 7月 - 初代坂口平兵衛死去[2]。
- 8月 - 山陰水産取締役[2]。
- 9月 - 日本製紙取締役社長[2]。
- 12月 - 城山[3] を米子市へ寄贈[2]。
- 1月 - 博愛病院取締役[2]。
- 3月 - 明正レーヨン監査役[2]。
- 5月 - 米子市農会会長[2]。
- 8月15日 - 襲名により「清太郎」を「平兵衛」と変更する[2]。
- 10月 - 米子銀行頭取[2]。
- 1月 - 鳥取県山林会評議員[2]。
- 3月 - 米子信用組合理事[2]。
- 6月 - 広島電気取締役[4]。
- 1月 - 帝国在郷軍人会松江支部顧問[4]。
- 12月 - 大政翼賛会鳥取県支部顧問[4]。
- 3月 - 米子商工会議所会頭[4]。
- 6月 - 米子銀行、松江銀行と合併山陰合同銀行となり取締役[4]。
- 5月 - 衆議院議員当選[4]。
- 9月 - 米子造船所社長[4]。
- 10月 - 山陰日日新聞社取締役社長[5]。
- 1月 - 公職追放[5]。
- 10月 - 米子木材取締役会長[5]。
- 12月 - 鳥取日産自動車販売取締役社長[5]。
- 11月 - 昭和天皇山陰行幸在所となる[5](この時の行幸で昭和天皇が宿泊した場所は主に旅館だったが個人の邸宅が選ばれたのは坂口家だけである)。
- 4月 - 鳥取県柔道連盟会長[5]。
- 12月 - 山陰石油取締役社長[5]。
- 7月 - 公職追放解除、米子商工会議所会頭[5]。
- 10月 - 米子信用金庫理事[5]。
- 7月 - 米子ロータリークラブ創立会長、山陰日日新聞社取締役会長[5]。
- 12月 - ラジオ山陰(現山陰放送)取締役会長[5]。
- 8月 - 鳥取県商工会議所連合会会長(2ヶ年毎に鳥取商工会議所会頭と交替)[5]。
- 3月 - 鳥取県信用保証協会会長(鳥取県商工会議所連合会長と兼任)[6]。
- 2月 - 中国地方生産性本部理事、鳥取県支部長[6]。
- 3月 - ウラン鉱業取締役社長[6]。
- 4月 - 米子電話会会長[6]。
- 6月 - 鳥取県観光綜合審議会会長、中海ブロック協議会会長[6]。
- 1月 - 生産性本部中国地方経済開発視察団団長として欧米各国を視察[6]。
- 5月 - 米子髙島屋取締役会長[6]。
- 9月 - 飛行館スタヂオ取締役社長[6]。
- 11月 - 米子郵便協力会会長[6]。
- 1月 - 山陰石油取締役会長[7]。
- 2月 - 米子ゴルフクラブ取締役社長、米子カントリークラブ理事長[7]。
- 10月 - 菩提寺心光寺梵鐘再鋳寄進[7]。
- 10月 - 中国地方経済連合会理事、国鉄関西支社評議員[7]。
- 3月 - 大山ゴルフ取締役社長[7]。
- 3月 - 米子国際ホテル取締役会長[8]。
- 5月 - 藍綬褒章受章[8]。
- 5月 - 日本放送録音取締役会長[8]。
- 1月 - 裏千家淡交会山陰地区名誉会長、米子支部名誉顧問[8]。
- 2月 - 坂口合名会社・代表社員会長[8]。
- - 勲三等旭日中綬章受章[8]。
- 6月 - 米子空港ビル取締役社長[8]。
- 3月 - 米子ゴルフクラブ取締役会長[9]。
- 4月 - 米子商工会議所会頭退任名誉会頭、顧問[9]。
- 4月 - 勝田神社に唐燈篭奉納[9]。
- 4月 - 加茂神社天満宮に唐燈篭奉納[9]。
- 6月 - 大山ゴルフクラブ名誉理事長[9]。
- - 日本棋院普及功労賞受賞[9]。
- 10月 - 昭和天皇国体に来県特別奉送[9] 昭和天皇より「昭和22年には暖かく迎えてくれてありがとう。どうですか、その後の健康は」、「二人そろってきてくれてありがとう。どうか大事にするように」とお言葉を賜る(東光園に於いて)。
- 1月29日 - 鳥取大学医学部に入院[10]。
- 2月17日 - 永眠、享年80[10]。戒名は天徳院栄誉賢岳意誠居士[10]。特旨により従四位を賜る。日本棋院名誉7段を追贈される[10]。関西棋院名誉7段を追贈される[10]。
人物像
帰郷・相続
平兵衛によれば、「その頃の私は一種のやんちゃもんでして、柔道家の山根、佐伯、永見というような荒らくれ者とばかりつきあっていました。急に私が帰らなくてはならなくなった。先代の合名社長豊蔵が五十九歳で昭和五年に死亡し、私は豊蔵の養子になっていた。二十五歳だったが相続することになった。相続は(プラスの)財産を受けるのが当たり前ですが、私は十に余る会社の社長を引き受けた。それは借金を引き受けるということで、苦労を相続したのです。昭和六年は日本史上かつてない不景気な時代で、生糸、製鋼所、電気会社も苦労しました。時には十日もまともに食事をしない日がありました。その当時、国家が手厚い保護の手を伸べてくれ、電気も製鋼所も生糸事業も、元金に損害を与えずに合併することが出来たのです。合併とは経営を譲ったということです。一人の被害者も出さずに、利益を供与して解散することが出来た。これは珍しいことです。不景気でいかん時だったしねえ。そんな時に世界大戦が起き、政府が手厚い保護をして合併させて、銀行も事業も無傷で済んだ。その当時の政府も偉かったですね。」という[11]。
人柄・性格
家族・親族
坂口家
- (鳥取県米子市尾高町)
家系
- “坂口氏”は藩政時代“沢屋”と称し綿、木綿仲買業を営んでいた[14]。米子の木綿問屋・仲買には18世紀から19世紀において変動があったが、幕末の木綿買付問屋は約30軒あった[15]。
- 元治元年(1864年)の米子地方木綿問屋37人の中には沢屋平兵衛、沢屋仁右衛門、沢屋清太郎の3人が名を連ねている[16]。米子の商家ではまず中堅クラスだった[17]。
- 坂口財閥といえば、戦前は全国的にもよく知られた存在だった[18]。山陰において財閥とよばれたのは、この鳥取・米子の坂口家だけであろう[18]。坂口家は単に資産家、豪族というだけでなく、さまざまな事業を興し、積極的に手をひろげていった[18]。後に大企業に成長する源流も幾つか手掛けている[18]。この坂口家の積極的な経済活動が、地元経済をリードしたから、米子が“山陰の大阪”と呼ばれるようになったともいえる[18]。
- “古老に聴く弓浜半島”(日本海新聞、昭和15年(1940年))に「一代で米子の大富豪となった初代の坂口平兵衛さんも若い時は籠を背に負い“綿はないかいなー”と一軒一軒朝早くから弓浜の農家を草鞋ばきで歩いたものだ」との話が出ている。
- 坂口家は、江戸時代後期に、“沢屋”の屋号で綿・木綿の仲買商を始めた[18]。以後醤油の醸造、薬用人参の販売などを行うが、「坂口財閥」と呼ばれるように家業を発展させたのは、初代平兵衛である[18]。平兵衛は明治18年(1885年)・19年(1886年)から地価の暴落に着目して、土地の買収に乗り出し、次いで養蚕製糸業、そして明治27年(1894年)には米子銀行を設立した[18]。次が鉄鋼業で[18]、官営の旧広島藩製鉄所の払い下げを受け、広島県の中国山脈部に散在する15の工場で砂鉄を原料に錬鉄、玉鋼の生産を始めた[18]。さらに米子に製鋼所をつくり、錬鉄からルツボ法を用いて工具鋼、刃物鋼を生産[18]。「鳩印」の商標で市場に出し、これが民間におけるルツボ鋼の嚆矢(こうし)と高い評価を受けた[20]。
- 従来からの家業の方も、酒、醤油の醸造、砂糖、綿製品、石油の取引を営む坂口商店を合名会社に組織し、扱い商品を拡大していった[20]。さらに水力発電の必要に着目し山陰電気を創設[20]、日野川水系に発電所の建設を始めた[20]。明治42年(1909年)、平兵衛は渋沢栄一を団長とする渡米実業団に製糸業者の代表として参加し、3か月にわたりアメリカを視察した[20]…。
- 米子市長を務めた野坂寛治によると、「米子の事業といえば、坂口家の事業と直結する程に先代平兵衛翁は事業家であった[21]。銀行・電気・漁業・製氷…一つとしてその主動力でないものはない[21]。特に家業の製糸業は日本で有数であり[21]、醤油醸造も地方王者の一人である[21]。(中略)商機をつかみ果断決行[22]。トテモドエライ事を父祖から聞かされていたから[22]、笑顔でわれら子供にわかるように話して頂いても、万事近よれなかった[22]。今日でも、石橋和訓氏描く肖像の前では、冗談も云えない[22]。」という。
略系図
参考文献
- 安田光昭 『「あの人この人」私の交友録』 1980年 161-164、277-279頁
- 『米子経済九十年の歩み』(1981年、編集兼発行者 米子商工会議所)
- 『坂口平兵衛意誠 追懐録』(1989年、坂口平兵衛追懐録編集委員会)
- 『政治家人名事典』(1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ株式会社)231頁
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年 424-433頁
関連項目
関連人物
脚注
外部リンク