国分(こくぶ)は、大阪府柏原市内の一地域。
柏原市の南東部に位置し、柏原市の前身である中河内郡柏原町と合併する前の南河内郡国分町の東側の地域である。
現在の住所表記では、国分本町、国分西、国分市場、国分東条町(こくぶひがんじょうちょう)、田辺、旭ケ丘の一部の各地域に該当する。
歴史・概要
近代以前
(日本 > 畿内 > 河内国 > 安宿部郡 > 国分村)
このあたりは古来より難波・河内国府と平城京・飛鳥とを結ぶ官道・古代道路の中継地点として栄えた。そのひとつである「長尾街道」の経由地であり、「竜田越え道」とも交わっている。河内国府からも近く、飛鳥時代後期(7世紀後半)には東条に大きな仏教寺院が建てられ、それが後に河内国分寺として改修されたといわれている。
しかし平安京遷都以降は京と国府を結ぶ道路の経路から外れたことにより寂れ、国分寺もいつしか廃寺となった。しかし国分寺があったことは、現在まで「国分」の地名として残った。国分東条町には河内国分寺塔跡があり、付近には21世紀に再興された河内国分寺がある。
近世以降、大坂との間に「国分舟」と呼ばれる船運が開始されると、現在の国豊橋あたりに船着場が設けられた。その西に町が開かれ、「新町」とよばれた。
近代以前には「国分」「六軒」「田辺」「東条」の四つの集落が存在した。
近代以降
(日本 > 大阪府 > 南河内郡 > 国分村 → 国分町)
- 1870年 大和川対岸の高井田村との間に「国豊橋」が架設された。
- 1889年4月1日 町村制施行に伴い、安宿部郡国分村単独で自治体としての国分村が成立。
- 1896年4月1日 郡の統廃合により、南河内郡に属する。
- 1931年4月1日 南河内郡玉手村と合併し、改めて国分村となる。
- 1936年2月21日 - 河内大和地震が発生。揺れにより土塚山の採石場斜面が崩壊して死者1人、重傷者2人。村内の建物にも被害多数[1]。
- 1941年4月1日 町制を施行し、国分町となる。
- 1956年9月30日 中河内郡柏原町と合併し、柏原町の一地域となる。
地理
柏原市の南東部、おおむね大和川の南、原川の東に位置する。地域の北西端付近に平地があり、古来から交通の要所となって町として発展してきた。現在は北の柏原とともに柏原市の中心地のひとつとなっている。
交通
- 高速道路
- 主な道路
- 3者は国分駅前で合流・分岐する。
- 鉄道
※2008年現在、公共交通機関としてのバスは廃れてしまった。
地域
国分本町、国分西、国分市場
かつての「国分」「六軒」地域一帯であり、現在の国分地区の中心地。
主な施設、旧跡
国分東条町
かつて「東条」と呼ばれた一帯。
主な施設、旧跡
- 延喜式神名帳に記載されている、二座ある杜本神社のうちの一座。国分寺跡の近くにある。
- ジェイテクト(旧光洋精工)研究開発センター、軸受事業本部、国分工場
- 柏原国分東条郵便局
- 東条工業団地
田辺、旭ケ丘
かつて「田辺」と呼ばれた一帯である。国道165号・近鉄線沿線、原川沿岸付近を除いて丘陵地帯となっている。
田辺地区と旭ケ丘3丁目とは近鉄線で分断され、かつ地形上、自動車の通る踏切・立体交差が設置困難なため、両地区との行き来は不便である。
主な施設、旧跡
- (田辺1,2丁目)
- 春日神社
- 田辺廃寺跡 - 奈良時代(8世紀)の寺院跡。国の史跡に指定。春日神社の境内一帯からかつて存在した薬師寺式伽藍配置の寺院遺構が出土しており、神社本殿・拝殿の南側の収蔵庫に出土品が保管されている。
- 西名阪自動車道 柏原IC
- 大阪方面への片方向の出入口。柏原市内へのアクセスにはあまり便利ではなく、隣の藤井寺ICのほうが便利である。
脚注
- ^ 家屋倒壊が続出、恐怖に包まれた大阪『大阪毎日新聞』昭和11年2月22日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p204-205 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994)年
関連項目