品川 氏章(しながわ うじあき、1845年7月28日(弘化2年6月24日)[1] - 1889年(明治22年)9月6日[2])は、江戸時代末期から明治時代初期の人物。長府藩士、報国隊士及び陸軍軍人。栄典は正四位勲二等。最終階級は陸軍少将[2]。
来歴
長門国長府藩士清水家の子として生まれる。幼名は省吾。のち品川弥二郎の養子となり、品川姓を名乗る。
養父とともに報国隊結成に参画し、のちに軍監となる。
慶応2年(1866年)6月、高杉晋作、山縣有朋らの率いる長州藩に加わり、小倉戦争に参加。慶応3年(1867年)10月、藩主元周の密命を受けて上洛。同年12月、倒幕の密勅が長州・薩摩に下されると帰藩し、北越戦争にも報国隊軍監として転戦。藩権大参事、のち大属となる。
1871年(明治4年)の廃藩置県後、兵部省出仕。中佐であった1877年(明治10年)3月、西南戦争に第4旅団参謀長として出征[3]。以降も工兵局長、東京鎮台軍法会議判士と出世を重ね、1885年(明治18年)5月、工兵会議議長になると同時に陸軍少将に累進。
1886年(明治19年)3月、歩兵第10旅団長に任じられるが、1889年(明治22年)7月ごろより病を患う。
同年9月6日、松山の任所にて没。享年45。墓は功山寺にあり。
年譜
- 明治2年11月28日 - 北越征討の功により藩より年金30円下賜[2]。
- 明治3年
- 7月10日 - 豊浦藩権大参事[2]。
- 10月18日 - 免職[2]。
- 10月19日 - 大属[2]。
- 明治4年
- 8月23日 - 兵部省六等出仕[2]。
- 10月 - 鎮西鎮台第一分営出張[2]。
- 11月9日 - 陸軍中佐[2]。
- 1872年(明治5年)
- 1873年(明治6年)
- 4月13日 - 広島鎮台司令長官御用取計[2]。
- 5月8日 - 武官等級改正に伴い五等官[2]。
- 11月17日 - 帰京仰付但陸軍大佐高橋勝政と交代の事[2]。
- 1874年(明治7年)
- 1875年(明治8年)
- 1877年(明治10年)
- 3月5日 - 九州出張[2]。
- 3月14日 - 第4旅団参謀長[2]。
- 4月9日 - 征討軍団参謀[2]。
- 4月13日 - 別働第5旅団参謀長[2]。
- 4月25日 - 出征第4旅団参謀長長[2]。
- 10月26日 - 名古屋に凱旋[2]。
- 11月 - 旧第4旅団残務取調として出張[2]。
- 12月15日 - 勲三等の年金260円下賜[2]。
- 1878年(明治11年)
- 4月15日 - 大阪工兵第4方面本署提理[2]。
- 6月12日 - 第2園区事務取調として出張[2]。
- 11月21日 - 陸軍大佐[2]。
- 1882年(明治15年)
- 1884年(明治17年)
- 2月21日 - 東京鎮台軍法会議判士[2]。
- 7月1日 - 同判士免職[2]。
- 1885年(明治18年)
- 3月23日 - 兼輜重局長[2]。
- 5月21日 - 陸軍少将、工兵会議議長[2]。
- 8月22日 - 国防会議議員[2]。
- 12月2日 - 陸軍大学学生学期末大試験及び再審検査委員長[2]。
- 1886年(明治19年)
- 1889年(明治22年)
栄典・授章・授賞
- 位階
- 勲等
脚注
参考文献
外部リンク