吉田 たすく(吉田祐[1]よしだ たすく、大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案[2]。難しい織りを初心者でも分かりやすい『紬と絣の技法入門』として刊行する。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士[3]。
鳥取県倉吉市広瀬町の開業医、伊藤琢郎・久代の子として生まれる。八人兄弟の六男。旧制鳥取県立倉吉中学校(現・鳥取県立倉吉東高等学校)卒業、研数専門学校物理科入学。
1945年、研数専門学校を卒業し帰郷した吉田は、倉吉の芸術文化の中心であった「砂丘社」に加わり、芸術家たちと親交を深めていった。吉田は砂丘社に所属する若い芸術家や、長谷川富三郎らと「創作郷土玩具発表会」を開く事にした。この発表会は、なにも手につかない戦後の倉吉の人たちの心を慰め喜ばれた。このとき大阪から倉吉に疎開していた日本画家・菅楯彦も立ち寄り、数点購入している。
伊藤家へ度々訪れていた版画家の長谷川富三郎は、教員となり倉吉に赴任したとき、しばらく伊藤家に寄宿しており、懇意にしていた。長谷川は砂丘社に所属している中で民藝運動に触発され、河井寛次郎を師と仰ぎ、棟方志功を兄弟子として慕うようになる。長谷川は当初は油絵を描いていたが、棟方志功の勧めで版画家になる。
兄・伊藤宝城や砂丘社、長谷川富三郎等の影響で民藝運動に入っていった吉田は、なかでも染織、陶芸を好み、特に河井寛次郎を尊敬していた。また、戦後に棟方志功が倉吉を訪問した際は、実家の伊藤家で度々歓談している。この頃、版画家で民藝運動に携わっていた長谷川富三郎のもとを度々訪問している。
1946年6月、長谷川富三郎の媒酌で吉田佐久子と結婚。たすくは吉田家の婿養子となる。
終戦後、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地解放・宅地解放などにより、多くの借家を持っていた吉田家・伊藤家もそれらを失い、新婚早々、夫婦の生活は困窮する。
佐久子と結婚したあと、倉吉市東仲町に「諸国民芸の店 - 風土」を開く。店には柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司達の指導した湯町や牛の戸などの器や諸国の民芸品、地元の若手芸術家が持っていた品の他、近くの窯場で吉田が絵付けをしたものが並んだ。
民芸品店を営業する中で、絣や貴重な風通織の布、裂も集まり、織物への関心を深める。地元の宍戸実治に勧められ木綿絣を、吉田正の母に高機の指導を受け、機織りを始める。昼間は民芸品店を営み、夜は織物を制作する。
翌年、国画会工芸部に織物を出品し、その後も数年間出品する。昭和25年(1950年)、吉田は倉吉町立西中学校の教師となり、毎晩遅くまで2人で機織りをする日々が続く。
江戸末期に始まった倉吉絣は、明治になって盛んに織られ、その当時倉吉地方の各家庭では自宅で使う木綿の着尺や布団生地はどれも、家の女手で織られた。
倉吉の娘は皆機(はた)を習った。器用な娘は平織りの絣とは違った織物「絵絣」「そしき織」「風通織」を織った。段々複雑なものが増えるに従い、「縞帳」(自分の織る織物の参考に柄を集めて帳面に貼ったもの)には縞より絵絣が目立つようになっていった。絵絣は字のごとく絵のような絣で松、竹、梅、鶴、亀、大黒や、様々な自然物、器具、字などを柄に取り入れたもので、上手なものはまさに手で書いたような織物あった。
明治初年頃稲を扱く稲扱き千刃(いなこきせんば)が倉吉で開発され、西日本を中心に全国に広まっていったがその稲扱千刃の行商人によって倉吉の絵絣は、全国へ広まっていったのである。その柄の巧みさで各地でもてはやされ、より複雑なものほど高価に売れた。そして更に複雑な織物をめざすようになっていく。これが倉吉の女達の貴重な内職収入源ともなった。
織機は縦糸を上げたり下げたりしてその間に横糸を通して織っていくのであるが、その上げ下げする器具を綜絖(そうこう)といい、2枚使うものが平織りとなり、綜絖が多くなるほど複雑な織物が織れる。
倉吉では平織りの二枚綜絖でなく四枚綜絖で平織りでは出来ない綾織り、浮き織など様々な紋織りや浮き柄の地紋があらわれ、秋田織、八反織、一楽織、星七子織、鎖織、四目織等の名が残っている。中には六枚綜絖、更に高級な十枚綜絖の組織織(そしきおり)も織られるようになった。このような織物を総称して風通織といった。
風通織は表裏別の糸を使い二重組織で織られ、表裏の糸が入れ替わり、交差しているところ以外袋状になっているのが特徴である。一般的に平織りしか織られていなかった時代に複雑な織物は大きな驚きであった。中でも不思議な織り方をする風通織に対しては憧れと畏敬の念をもたれたのである。面倒な組織織は誰でも織れるものではなく、ごく限られた人たちに織継がれていったが、その中の更にごく一部の人により織り方をつたえる伝書が書かれた。
しかし大正時代になると手織りは工業生産に押されるようになり、また、倉吉絣はその柄が手で書いたように高度であったため機械化をすることも出来なかったために絣の仕事は消えていったのである。倉吉地方で誇らしく織られた風通織は、古い家の片隅か、小裂の布として残っているだけとなっていった。
吉田たすくは民藝運動と「諸国民芸の店 - 風土」をやっている中で、残された小裂きの風通織や絣のもつ奥深い美しさにいとおしさを感じ、なんとか倉吉で再現させよう、現代生活にあう新しい絣、新しい織物を作ろうと倉吉絣の魅力にとらわれていったのである。昭和30年(1955年)頃、倉吉の旧家から辛うじて残っていた数冊の織物の伝書を入手する。伝書の中には落丁しているものや虫食いで穴が空き字も読めず、ページも捲れないほどのものや、判読不能なものもあり読むことすら難儀なものもあった。1969年頃、東大寺の清水公照大僧正を自宅に迎え話を伺う中で、吉田の染織に対する姿勢に好感を持った大僧正より「不染」の号を名付けられた。また、「おらずやのたすく」ともいわれた。吉田は蛍と月見草をこよなく愛していた。1987年7月3日、東京国立がんセンターにて、食道癌のため逝去。清水公照より戒名「天心院梶葉祐光不染居士」と命名された。
研究・指導 たすくは倉吉市立西中学校、倉吉市立久米中学校、大栄中学校などで美術を教えているが、中学校の美術の教諭で、織物の教育を始めた最初の人物である。生徒にはタピストリー作家・麻生三和子や漫画家・青山剛昌などがいる。
自身が苦心して解読したり創作した染織技術は絣を織りたいと思う人々を増やしていき、現在では倉吉にも機の音が少しずつ聞かれるようになった。この、吉田たすくの「綾つづれ織」は三男の吉田公之介に受け継がれている。吉田公之介は、2004年鳥取県伝統工芸士に認定され、2006年にはたすくと同じく新匠工芸会会員に推挙され今に至る。約20年の歳月を費やしてようやく伝書を解読し、四枚綜絖・八枚綜絖・風通織などを実際に織って実証していく中で自身のものにした。それらをまとめ、『倉吉地方明治中期 そ志き織と風通織』として刊行する。織物の制作のかたわら、倉吉地方の伝統の織物の解説書の著述をはじめ、雑誌や新聞でも染織の研究や染織にまつわるコラムなどを記している。一例として、万葉集を題材に「染と織の万葉慕情」を日本海新聞に昭和57年(1982年)3月5日から昭和59年(1984年)3月30日まで毎週、2年にわたって100回連載。月刊「染色α」の創刊時に依頼され「紬織のポイント」を6回連載。そして、さらに昭和59年(1984年)11月号から6回の二度にわたり紬織、絣織の技法を図説で発表。これについて全国で織物をしている読者から反響が多く、これを元に再度内容を洗い直し、「誰が読んでもわかりやすい本にする事」を第一に考えて、この技法のすべてを新人及び後輩指導のための技法書として一冊の本にまとめて『紬と絣の技法入門』を刊行する。誰かに見せ手直しをしつつ10年近くにわたってこつこつと書き続けた労作である。しかし、その発刊を待たずに昭和62年(1987年)7月3日死去。昭和56年(1981年)、NHKの『新日本紀行』で「絣の似合う町倉吉」を放映したが、織物を復活創造している吉田と公之介が出演。そして24年後の『新日本紀行ふたたび』(2005年)では、在りし日の吉田と公之介が再び出演している。
これらを苦心の末、具体的な織りと組織図等をふくみ書籍としてまとめ終え、「倉吉地方明治中期 そ志き織と風通織」として完全版として発刊できたのは、 吉田たすく死後一周忌であった。