原口鶴子
1914年(大正3年)
原口 鶴子 (はらぐち つるこ、旧姓 :新井、1886年 6月18日 - 1915年 9月26日 )は、大正時代 に活躍した日本の心理学者 。Ph. D. を取得した最初の日本人女性である。医学博士 (M.D.)取得日本人女性は以前に岡見京子 がいたが、Ph.D.は全分野を含めても初であった[ 1] [ 2] [ 3] 。
生涯
1886年、群馬県 の富岡 生まれ。子供のころの名は新井つる といい、三人姉妹の一人であった。父新井広三郎は豪農 。1902年 に二年飛び級して群馬県立高崎高等女学校 に進学[ 1] [ 3] 。1903年 に日本女子大学 入学。英文学科 で人文学 を専攻する。当時、女性を受け容れてくれる四年制大学は日本にはなかった。また、より高度な高等教育機関設立が、はじめて、公的に考えられたのは1947年 であった[ 4] 。
そのため、彼女の指導者であった心理学者の松本亦太郎 は、さらに教育を受けることをつるにすすめた。つるは卒業後の1906年 、日本を去って米国 へ発った。心理学の博士課程を修めるために、1907年 にコロンビア大学 に入学する[ 1] [ 3] 。実験心理学と心理学の教授法を専攻し、エドワード・ソーンダイク 、ロバート・ウッドワース (英語版 ) 、ジェイムズ・マッキーン・キャッテル の指導を受けた[ 5] 。そして1912年 に「心的疲労」と題した論文 を完成させた。この論文には、彼女自身が実験台となって、4桁の数字を掛け算したり、ジョン・デューイ の著作にある英語の文章を日本語訳したりして心的疲労を測るという実験が含まれている。1912年 6月5日 に学位を授与され、Ph. D. をはじめて取得した日本人女性となった[ 3] 。また、同日に留学生仲間の原口竹次郎 (のちの早稲田大学 教授 [ 6] )と結婚して、イギリスへ新婚旅行 に出発した[ 4] 。
原口鶴子は日本に帰国し、自らの理論を拡張させた。また、日本語への翻訳も行い、1914年 に「心的作業及び疲労の研究」という題で発表した[ 4] 。日本女子大学で時おり講義をすることもあり、同大学の実験心理学教室の設立に携わったりもした[ 3] [ 5] 。夫原口竹次郎との間には一男一女をもうけたが、結核 により1915年9月26日に亡くなった。29歳(数えで30歳)だった[ 3] 。
業績
原口鶴子の最後の仕事は、フランシス・ゴルトン の『天才と遺伝』(原題:Hereditary Genius 、1869年 )の日本語訳となった。『天才と遺伝』は没後の1915年に出版された[ 3] 。また、原口鶴子がコロンビア大学において経験したことや、日米の文化的相違についての観察について綴った回顧録『楽しき思ひ出』が、1915年に出版された[ 4] 。
原口鶴子の生涯と業績についてのドキュメンタリーが2つ制作されている。「原口鶴子の生涯」(2007年、英題:The Life of Tsuruko Haraguchi )と、「心理学者 原口鶴子の青春 100年前のコロンビア大留学生が伝えたかったこと」(2008年、英題:Psychologist Tsuruko Haraguchi: Memories of Her Days at Columbia University in the Early 1900s )である[ 4] [ 7] 。
著書
単著
『心的作業及疲労の研究』(1914年)表紙
『心的作業及疲労の研究』 北文館 (1914 コロンビア大学の博士論文を再構成したもの)
『楽しき思い出』 春秋社書店 (1915 留学時代の随筆 復刻・山崎朋子編 『叢書女性論12』 大空社 1995)
翻譯
ゴルトン 『天才と遺伝』 早稲田大学出版部 (1915)
論文
「精神薄弱児の心理学的研究」 『児童研究』 第16巻 4号 (1912)
「児童智能の測り方」 日本女子大学 校桜楓会発行 『日本女子大学校・家庭週報』 第258号 - 261号 (1914)
「実際の疲労と疲労の感 上下」 『心理研究』 第8巻 2冊 (通巻 44号) - 3冊 (通巻 45号) (1915)
参考文献
『邦文心理学文献目録稿』 国立国会図書館支部上野図書館 1953
木村毅 「海外に活躍した明治の女性」 至文堂 1963
荻野いずみ 『原口鶴子-女性心理学者の先駆』 銀河書房 1983
青木生子 「原口鶴子・高良とみ」 『近代史を拓いた女性たち-日本女子大学に学んだ人たち』 講談社 1990
大泉溥 編 「日本心理学者事典」クレス出版 (2003) ISBN 4-87733-171-9
出典
関連項目
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