南葵音楽文庫 (なんきおんがくぶんこ) は、紀州徳川家16代当主である徳川頼貞 (1892-1954) によって収集された、主に海外の音楽書や楽譜などのコレクション。1918年に東京飯倉で成立以来、様々な変遷を経て、2017年から紀州徳川家ゆかりの地にある和歌山県立図書館で公開されている[1][2][3]。
紀州徳川家15代当主の徳川頼倫 (1872-1925) は、1902年東京飯倉の邸内に南葵文庫を設立、1908年より私立図書館として一般公開した。蔵書は徳川家伝来の書及びその後の収集書合計7万冊であった。1892年に生まれた長子の頼貞は、10代の頃からピアノ、和声、対位法を学び、1913年より英国に留学、ケンブリッジ大学で音楽学を学ぶ。1914年第一次世界大戦が勃発し、頼貞は米国を経由して12月に帰国。父親は南葵文庫に講堂を計画しており、頼貞は音楽堂の建設とパイプオルガンの設置を進める。1918年に南葵楽堂 (正式名称は南葵文庫附属大礼紀念館) は開堂し、頼貞が留学中に購入した楽譜や音楽書は、楽堂の半地下に配架された[4][5]。
コレクションの収集と整理は継続していたが、1923年9月の関東大震災で楽堂は損壊し、使用できなくなった。楽堂のオルガンは1928年に東京音楽学校へ寄附され、楽堂も同年引き払われた。父親の「南葵文庫」は1924年東京帝国大学図書館に寄贈されたが、音楽関係蔵書は頼貞の所管に移し、旧南葵文庫事務所で「南葵楽堂図書部」として公開された。1925年図書部は「南葵音楽事業部」と改組され、コレクションはその附属施設として「南葵音楽図書館」となった。蔵書は無料で公開され、レコード視聴室も設けられ、更に研究調査のための部署も設置されていた。しかしながら1932年徳川家の財政事情で図書館は閉館、コレクションは慶應義塾図書館に移管され、翌1933年から公開された[6][7]。
1945年にはいり徳川頼貞は慶應義塾図書館に委託契約の解除を申し出、コレクションは6月に同館から搬出された。その後紆余曲折の末[8]にコレクションは実業家大木九兵衛 (?-1996) の所有となり、1967年に読売新聞社の協力のもとに「南葵音楽文庫特別公開展」が東京と大阪で開催された[9][10]。大木と読売新聞社はコレクションの保存公開を目的に1970年財団法人東京音楽文化センターを設立し、公開の準備が整うまで東京目黒の日本近代文学館に間借りすることになった。
しかし東京音楽文化センターは1977年に解散し、2万点を超える蔵書はすべて読売日本交響楽団に移管された。日本近代文学館の時期に作成された貴重資料のマイクロフィルムは、東京音楽大学付属図書館、後に国立音楽大学図書館に寄託され、利用に供されていた[11][12]。また旧文庫の貴重資料を含む約10,000点は、上記の大木宅内の空調設備をもった書院に保管された[13]。
2016年になり読売日本交響楽団は紀州徳川家ゆかりの地である和歌山県と寄託契約を締結し、翌2017年12月からコレクションは和歌山県立図書館および博物館で一般公開されている[2][14]。また読響ではコレクションのデジタル化に継続して取り組んでいる[3]。
1929年には3万点に及んだコレクションのうち、主なものは次の通り[2][15]。
1924年11月に日本人により初めて全曲演奏されたベートーヴェンの第九交響曲の楽譜も、所蔵されている[16]。
一世紀にわたる南葵音楽文庫の変遷は次の通り[14]。