十二表法(じゅうにひょうほう、Lex Duodecim Tabularum)は、古代ローマにおいて初めて定められた成文法。名前は12枚の銅版に記されたとする伝承に由来する。十二銅板法とも呼ばれる[1][2]。
伝承によれば、十二表法の制定以前のローマにおいては法知識はパトリキ(貴族)に独占されており、そのことに対するプレブス(平民)の不満は強かった。プレブスの強まる成文法への要求に対しパトリキ側もその作成を約束し、ギリシアのアテナイに使節を派遣しローマの成文法の参考とした。
ティトゥス・リウィウスによれば、紀元前486年の土地分配法提出以降、毎年のように護民官の提出するプレブスの権利拡大や、パトリキの権限制限を狙った法案を巡って争いが起きており、その妥結点として、パトリキとプレブス双方から責任者を選出して新しい法を定める事が提案され、責任者についてはひとまず置き、ソロンの法や社会制度の研究のため紀元前454年に使節が派遣されたという[3]。
成文法の作成はローマの最高の権限を与えられたアッピウス・クラウディウスら十人委員会が担当し、その間は執政官や護民官といった通常の高位官職は停止された。紀元前451年にまず十表の法が制定され、その翌年に第二次十人委員会によって二表が追加された[4]。
こうして制定された法は十二の銅板(異説あり)に刻んで公布されたとされ、この銅版はフォルム・ロマヌムにおかれたとされる。十二表法はローマ人の教養として、父から子供への初等教育として教えられたり[2]、暗唱させられることもあったといい、紀元前387年のガリア人の襲来によって十二枚の銅版は失われたとされるものの、様々な著作に残る断片の引用からその内容はほぼ完全なかたちで復元されている。
十二表法にはパトリキとプレブスとの通婚の禁止などパトリキ側に立った法も含まれていたものの、成文法が制定されたことで法知識がプレブスにも共有されるようになり、パトリキの恣意的な法運用は難しくなった。この点で、紀元前5世紀に始まるローマの身分闘争における重要な画期とされる。なおパトリキとプレブスとの結婚は紀元前445年に制定されたカヌレイウス法によって認められた。
十二表法はアテナイから法知識を学んで作成されたといわれるが、その内容にはアテナイではソロンによって債務奴隷は禁止されていたにもかかわらず、債務が返済不能になった者が債務奴隷となる規定があるなど、その真偽は定かではない。
十二表法の理念は原則的にはローマ帝国期にまで引き継がれたといわれている。十二表法は体系的なものではなく、既存の慣習法を再編成して法律形態にしたものであると言われている。また、民事法と刑事法の不徹底、私的復讐論理の存続、農業社会の特徴として土地所有者(特にパトリキ)に有利な土地法制、法の前の平等を掲げながらもその複雑な体系ゆえに学習・精通出来る余裕がある者が限られる点(結果的に時間的・経済的余裕のあるパトリキに有利に働く)などの問題点も存在していた。
法の内容は多岐に渡っており、分類すると、民事訴訟、債務、家族、相続、財産、不動産、葬儀、結婚、不法行為、犯罪などに関する法や規則が定められている。
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