内道場(ないどうじょう)とは、宮中に設けられた仏事を修するための施設。内寺ともいう。
概要
中国の同種の施設にならったもので、その名称は隋代からのものだとされるが、精舎を殿内に建造したのは東晋の孝武帝の太元元年(376年)に始まる。南北朝時代にはふるわなかったが、隋の煬帝は内道場に道教・仏教の経典を集め、目録を作ったという。そして、唐]の時に内道場の制度が発展し、最盛をきわめている[1]。あるいは『大宋僧史略』によると、「内道場は後魏に起こる、而して名を得るは隋朝に在り」「則天又洛京大内に於て内道場を置く、中宗睿宗此の制を改むること無し」ともあり、『塵添壒嚢鈔』一五、内供奉事によると「内道場の供僧なれば内供奉と云、大内の道場なれば内道場と云也」とも記されている。
日本では、天智天皇10年(672年)10月に
内裏
(おほうら)にして、百仏
(ももほとけ)の眼
(みめ)を開けたてまつる
[2]
とあり、近江大津宮の内裏に仏殿があったことが記されている。天武天皇12年(683年)秋7月には、今年の夏に、初めて僧尼を招き、飛鳥浄御原宮の宮中に安居させ、これにより7月中旬に「浄行者(おこなひひと)」を選んで30名ほど出家したとある[3]。
正倉院文書の写経目録によると、天平5年(733年)2月に内堂が存在しており[4]、これを内道場の起源とみる説もある[5]。『続日本紀』にある玄昉の卒伝によると、霊亀2年(716年)に入唐し、天平7年(735年)の遣唐使に随従して帰朝した玄昉が[注 1]、経論五千巻あまりともろもろの仏像をもたらし、律令政府は玄昉を尊んで僧正とし、「内道場」に出入りをさせたとある[6]。玄昉が僧正に任命されたのは、天平9年の8月であり[7]、その前後に「内道場」と呼ばれるものが建造されたことになる。
『続紀』の道鏡の卒伝には、道鏡が「内道場」に入って、列して禅師となった、ともある[8]。
『経国集』には、称徳朝に内道場における虚空蔵菩薩会を観て歌った淡海三船の詩が一首収録されている。
宝亀3年(772年)には、内道場に奉仕して、主に天皇の安寧を祈る内供奉十禅師が置かれている[9][10]。
平安京では、承和元年(834年)に空海の上奏により、内道場として真言院が設けられている[11]。
脚注
注釈
- ^ 遣唐大使多治比広成が種子島に帰り着いたのは前年の11月20日であり、節刀を返上したのは7年の3月10日、天皇に拝謁したのは同月25日である
出典
- ^ 鎌田茂雄『中国仏教史』
- ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年10月8日条
- ^ 『日本書紀』巻第二十九、天武天皇下 12年7月条
- ^ 『大日本古文書』巻七 - 6頁
- ^ 井上薫『奈良朝仏教史の研究』
- ^ 『続日本紀』巻第十六、聖武天皇 天平18年6月18日条
- ^ 『続日本紀』巻第十六、聖武天皇 天平9年8月26日条
- ^ 『続日本紀』巻第三十二、光仁天皇 宝亀3年4月6日条
- ^ 『続日本紀』巻第三十二、光仁天皇 宝亀3年3月6日条
- ^ 『類聚三代格』巻3「僧綱員位階并僧位階事」宝亀三年三月廿一日太政官符
- ^ 『続日本後紀』承和元年12月19日条
参考文献
- 『日本書紀』(五)、岩波文庫、1995年
- 宇治谷孟訳『日本書紀(下)』、講談社〈講談社学術文庫〉、1988年
- 『続日本紀』3新日本古典文学大系14 岩波書店、1992年
- 『続日本紀』4新日本古典文学大系15 岩波書店、1995年
- 『続日本紀』5新日本古典文学大系16 岩波書店、1998年
- 宇治谷孟訳『続日本紀(上)・(中)・(下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年・1995年
- 森田悌訳『続日本後紀(上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2010年
- 『角川第二版日本史辞典』p703、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966年
- 『国史大辞典』第十巻p515、吉川弘文館、文:二葉憲香、1989年
- 『岩波日本史辞典』p856、監修:永原慶二、岩波書店、1999年