内藤 政韶(ないとう まさつぐ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。日向国延岡藩の第4代藩主。官位は従五位下・能登守。延岡藩内藤家宗家9代。
安永5年(1776年)2月3日、第2代藩主・内藤政陽の長男として江戸麻布にて誕生。天明8年(1788年)に第3代藩主・内藤政脩の養子となり、寛政2年(1790年)8月20日の政脩の隠居により家督を継いだ。
先代から続く藩財政難のため、寛政6年(1794年)から杉・櫨(ハゼノキ)などの植林を行なう植物方を設置するが、財政難は解消されずに逆にこの出費でさらに財政が悪化したため、政韶死後の文化3年(1806年)に廃止されている。そのほかにも水路開発、寛政9年(1797年)より3ヵ年に及ぶ家禄削減による倹約政策などを行なったが、あまり成果はなかった。
政韶は古墳発掘・調査などを自ら行なうことを趣味としており、著作に「集古採覧」がある。
享和2年(1802年)7月31日、延岡で死去した。享年27。跡を養子・政和が継いだ。墓所は延岡市の三福寺。
父母
正室
子女
養子