六角 義信(ろっかく よしのぶ)は、南北朝時代の守護大名。近江国守護。六角氏5代当主。
略歴
正平4年/貞和5年(1349年)、六角氏頼の嫡男として誕生。
観応の擾乱で進退に窮して正平6年/観応2年(1351年)6月25日に出家した父から家督を譲られた。しかし幼少のため叔父・山内信詮(定詮)が近江守護となり、その定詮が直義方につくと代わってもう一人の叔父である直綱が近江守護になった[1]。正平7年/文和元年(1352年)から正平8年/文和2年(1353年)まで短期間近江守護に補任され、正平9年/文和3年(1354年)に当主に復帰した父が近江守護に任命された。
正平17年/貞治元年(1362年)12月2日に2代将軍・足利義詮の加冠により元服、義詮から偏諱(「義」の一字)を受けて義信と改名した[2]。しかし、正平20年/貞治4年(1365年)11月8日に17歳で急死した。
六角氏には義信の異母弟の亀寿丸がいたがまだ生まれたばかりであり、管領・細川頼之の命により父・氏頼の母方の従兄弟に当たる京極高詮(京極高氏の孫)を猶子に迎えたが、7年後に亀寿丸が元服して六角満高となると六角氏を継ぎ、高詮の近江守の任は解かれ京極氏に戻った。
脚注
- ^ 六角定詮(山内信詮)が氏頼に代わって守護となり正平6年/観応2年の8月段階に在任していたことが足利尊氏の御教書から判明するが、9月に発生した近江国内の攻防には攻撃側(直義陣営)に「佐々木五郎左衛門尉」(『天正本太平記』)が、守備側(尊氏陣営)に「当国(近江)守護氏頼舎弟」(『園太暦』観応2年9月11日条)がいたことが判明する。佐々木五郎左衛門尉は六角定詮の別名であるために彼が「当国守護」であることはあり得ない。このため、9月段階では『天正本太平記』に「佐々木四郎左衛門尉」の名前で登場して尊氏陣営による佐々木城(観音寺城)の防衛に参加している氏頼のもう一人の弟である直綱が守護に補任されていたと考えられている(下坂守「近江守護六角氏の研究」(初出:『古文書研究』12号(1978年)/所収:新谷和之 編著『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-144-8))。また、別の説として六角千手(義信)が近江守護に任じられたが、幼少であったために信詮がその名代になったとする説もある。ただし、この説でも実際の守護文書は信詮が発給していたため、文書を受け取る側からすれば信詮が守護として見られたとしても不自然ではないとする(新谷和之「南北朝・室町期における六角氏の家督と文書発給」川岡勉 編『中世後期の守護と文書システム』思文閣出版、2022年 ISBN 978-4-7842-2030-4)。
- ^ 『師守記』貞治元年12月2日条。
出典
六角氏5代当主(1351年 - 1354年) |
---|
宗家 | |
---|
|
定治流 | |
---|
義実流1 | |
---|
※ 1義実流の人物は『江源武鑑』や系図類のみにしかなく、実在は確認されていない |