八王子空襲(はちおうじくうしゅう)は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月2日未明にアメリカ軍が東京都八王子市と周辺の町村に対して行った空襲である。八王子大空襲(はちおうじだいくうしゅう)とも呼ばれる[1]。B-29の焼夷弾攻撃により市街地の8割が焼失し、約450名が死亡した[2]。
空襲理由
- 1945年(昭和20年)8月2日まで八王子市は大規模な空襲を受けていなかった
- 八王子市街の中心に位置する八王子駅は中央線・横浜線・八高線が通っておりアメリカ軍からは東日本における鉄道の重要都市と位置づけられていた。
- 軍需工場の労働者の住居や疎開してきた人が多かった事が空襲の理由となった。
しかし浅川地下工場(浅川地下壕)など軍事施設については把握しておらず、軍事上・経済上の重要度は低かった。
空襲の以前
空襲の経過
- 8月1日の20時20分に警戒警報、20時55分に空襲警報が発令された[5]もののB-29はいっこうに現れず、また午後10時ごろから川崎などが爆撃されているとの情報などが23時頃に入り、市民は八王子に空襲はないと勝手に警戒を解いていた。8月2日の午前0時ごろ、米軍機は伊豆半島から丹沢山を経て八王子に侵入した。その後B-29爆撃機169機が来襲した。
- 先行する爆撃機が0時45分から目標を照らすためM47焼夷弾を投下し、0時48分に主力部隊がM17集束焼夷弾を投下した[6]。2時間にわたって爆撃され市街域の3.6 km2のうち2.9 km2が焼失した。2時間で1600トンの焼夷弾が投下され日本本土空襲では3番目の投下量となった。また市民一人当たりの投下量は10個となった。
- 空襲が予告されたため都内中から消防隊が結集されたが故障車や空襲中に到着した消防車が多かった。市街中心部に水利が少なく消防の能力を超えた火災であった。また応援に駆けつけた消防隊員は地理に暗かったこともあり7名の殉職者を出す結果となった[6]。
空襲の被害
- 死者 445人(八王子市以外の旧浅川町なども含める)[7]
- 負傷者 2,000人以上
- 被災人口 70,000人
- 焼失家屋 14,000戸(市街地の80.0%、津大空襲に次ぐ5番目の被害)
慰霊
戦災殉難者は台町にある1965年(昭和40年)10月に建立された富士森公園内の慰霊塔に265人[8]が合祀されている[9]。
備考
この日と同じ頃、長岡市(長岡空襲) 、富山市(富山大空襲)、水戸市(水戸空襲)でも空襲があった。また、前日には米軍によって八王子や前述の都市[10]などへの空襲を予告するビラが日本全国に投下された(ページ冒頭の写真を参照)。
脚注
参考文献
- 『八王子空襲』 八王子市教育委員会、平成17年(2005年)。
- 『八王子の空襲と戦災の記録(総説)』 八王子市教育委員会、昭和60年(1985年)。
- 『八王子の空襲と戦災の記録(資料)』 八王子市教育委員会、昭和60年(1985年)。
関連項目
外部リンク