元田 作之進(もとだ さくのしん、文久2年2月22日[2](西暦1862年3月22日) - 1928年(昭和3年)4月16日)は、日本聖公会の日本人最初の監督主教。立教大学の初代学長。松下正寿は娘婿[1]。
生涯
文久2年2月22日、筑後国久留米藩士(郡奉行を務めた)の第6子として出生[2]。1877年(明治10年)、久留米師範学校の第一回卒業生になる。卒業後は小学校や中学校の教師を務めた。
1881年(明治14年)米国聖公会宣教師テオドシウス・ティングの大阪・川口の英和学舎(のちの立教大学)で学ぶ。
1882年(明治15年)に洗礼を受けてキリスト教に入信。同年、英和学舎の教師である河島敬蔵が日本で初めてシェイクスピア劇の翻訳を行う中で筆記を担当。翌1883年(明治16年)2月から、『ジュリアス・シーザー』の翻訳である『欧州戯曲ジュリアスシーザルの劇』として日本立憲政党新聞(現:毎日新聞)に掲載[3]。
1886年(明治19年)に渡米。その後、ケニオン大学、フィラデルフィア神学院、ペンシルベニア大学哲学科、コロンビア大学で社会学を専攻して、哲学博士号を取得する。1896年(明治29年)1月に司祭となる。
1896年(明治29年)9月に帰国後、立教専修学校の校長に就任する。
1897年(明治30年)に信仰心の篤い生徒を組織して「立教学校ミッション」を結成。翌年3月に機関紙である『築地の園』を創刊する[注釈 1]。
1899年(明治32年)立教中学の校長になり、1907年(明治40年)立教大学の初代学長に就任する。その後、東京三一神学校(現・聖公会神学院)の教授も務めた[5]。
その間、津田梅子が1900年(明治33年)に設立した女子英学塾の創設と運営に、新渡戸稲造、上野栄三郎らと協力した[6][7]。また、1900年(明治33年)から1923年(大正12年)まで拓殖大学で英語を教えた[8]。
立教大学は池袋移転後の1922年(大正11年)、大学令にもとづく大学として認可される。同じ年に日本聖公会東京区が創設されると日本人初の監督主教に任職される。攻玉社講師なども務めた。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では復興に尽力する。
1927年(昭和2年)9月には、多川幾造(平安女学院元校長)とともに、満洲国大連に渡航して講演を行った[9]。
1928年(昭和3年)、脳出血のため死去[10]。
1929年(昭和4年)5月1日には、立教大学で元田前学長の記念銘板(タブレット)の除幕式が盛大に行われた。式は図書館講堂において肖像除幕式によって始められ、その後チャペルで記念タプレット除幕礼拝式が行われた[11]。
主な著書
著書に『日本聖公会史』、『老監督ウィリアムス』などがある。
栄典
脚注
注釈
- ^ 月刊として1931年(昭和6年)5月の300号まで続いた。その時々の立教のキャンパス全体の状況を知る唯一の雑誌として貴重である[4]。
出典
参考文献
外部リンク
立教大学総長(学長:1922年 - 1923年) (立教学院立教大学長:1907年 - 1922年) |
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(旧制専門学校)立教学院立教大学長 | |
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立教大学総長 ※1922-1943学長 | |
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