中馬 興丸[1](ちゅうま おきまる[2]、旧姓・天崎[3]、1871年4月1日(明治4年2月12日)[4] – 1936年(昭和11年)3月14日[2][5])は、日本の政治家、医師[1][6]。衆議院議員(兵庫県第二区選出、当選3回)[2][5]。尼崎中馬病院主[7]。族籍は兵庫県士族[7]。
経歴
摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市)に天崎紹印の三男として生まれ、中馬譲吉の養子となった[3][6]。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学を卒業[3][6][7][8]。日露戦争に従軍し、陸軍一等軍医に任ぜられた。姫路県立病院副院長を務めた後、中馬病院を開業した[3]。一般の診療に従事した[7]。また尼崎市医師会長、琴浦育児院長、尼崎市訓盲院長などを務めた[3]。
1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。憲政会[1]、立憲民政党[2][5][6]に所属。第15回、第17回で再選を果たした。
その他、阪神競馬倶楽部理事長、尼崎魚市場、尼崎青物市場各社長、朝鮮平安漁業取締役を務めた[2][3][6]。
人物
宗教は禅宗[3]。趣味は書画、骨董、囲碁[3]。住所は尼崎別所村[3]、開明町3丁目[6]、西難波[7]。
家族
- 中馬家
脚注
参考文献
- 『関西杏林名家集 第1輯』衛生新聞社、1909年。
- 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正5年 至大正6年』東京帝国大学、1913 - 1924年。
- 『衆議院要覽 大正13年12月編 乙』衆議院事務局、1924年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 下』人事興信所、1934年。
- 『第一回乃至第二十回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年。