中野氏(なかのし)は、羽州探題最上氏の庶流。最上氏と密接に関わり、幾人もの最上氏当主を輩出した。
概要
最上氏3代満直の子、中野満基を祖とする[1]。山形城北方、六十里越街道(寒河江街道)が須川と交差する地点の中野城 (出羽国)を本拠とし[2]、最上氏の重要な分家として室町時代に幾人もの最上氏当主を輩出した。
庶流ではあるが、2代中野満氏・3代中野義淳は最上宗家を継ぎ、満氏、義淳は最上氏・中野氏の家督を兼ねた。その後、1504年義淳の長男最上義定は最上家を、次男中野義建は中野氏を継いだ。1514年に最上義定が伊達氏に敗れ伊達稙宗の妹を娶って和睦し、継嗣のないまま1520年に没すると、義建の孫・義守(義清の次男)が最上氏に入嗣した(なお、中野氏の家督は義守の兄、中野義政が継承している)。一説として、義守は兄・義政が没すると次男の中野義時に中野城を与えた。しかし、天正最上の乱で義時は自害した。これにより中野氏は断絶したという。その義時の子、備中が陸奥国へ逃れたという説があるが、義時の実在を含め、疑念が持たれている。
系譜
「寛政重修諸家譜」
中野氏歴代当主別説
脚注
出典
- ^ 「寛政重修諸家譜」、『大日本史料』7編18冊283頁
- ^ 『山形県中世城館跡調査報告書 第2集(村山地域)』p.45
- ^ a b 胡偉権「山形最上氏と中野氏・寒河江大江氏―義光のゆかりを探る」
参考文献
- 陸奥・出羽 斯波・最上一族
- 奥羽斯波氏諸列記
- 最上公義の語る山形
- 東京大学史料編纂所データベース『大日本史料』
- 山形県教育委員会『山形県中世城館跡調査報告書 第2集(村山地域)』、2000年
関連項目