中村 精男(なかむら きよお、1855年6月2日(安政2年4月18日) - 1930年(昭和5年)1月3日)は、明治・大正期の気象学者。第3代中央気象台台長。気象事業の整備や科学的な気象学の育成に尽力。日本の理科教育にも貢献した。
経歴・業績
長州藩士:中村粂吉の長男として長門国萩で生まれる。少年の頃松下村塾に学ぶ。1871年上京し、大学南校を経て1879年東京大学物理学科を卒業、内務省地理局(国土地理院の前身の一つ)測量課に入る。
1886年から1889年にドイツに留学。ベルリン大学、ハンブルク海洋気象台で気象学を修める。1890年に中央気象台技師となる。1893年にシカゴで開かれた万国博覧会に出品するため英語で「The Climate of Japan 日本の気候」を執筆、この論文により1902年2月10日に理学博士となった[1]。1895年に中央気象台台長に就任、1923年まで務めた。1908年11月28日には帝国学士院会員に選任された[2]。
公務のかたわら、1881年には寺尾寿、和田雄治らとともに東京物理講習所(のち東京物理学校、現東京理科大学)の設立に携わり、寺尾寿の後任として1896年から同校の校長となり、1930年に脳溢血[3]で死去するまで在職、日本の理科教育にも大きく貢献した。
エスペラントおよびメートル法の普及に尽力した功績も大きい。財団法人日本エスペラント学会の初代理事長を1926年から1930年に務めた。
多磨霊園に眠る[4]。
栄典・授章・授賞
著書
- 中等教科・物理学、小林晋吉と共著、水野書店、1903年
- Verkoj de D-ro Nakamura(中村精男博士遺稿集)、日本エスペラント学会、1932年 - 全篇エスペラントで記述
脚注
- ^ 『官報』第5579号、明治35年2月12日。
- ^ 『官報』第7629号、明治41年11月30日。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)20頁
- ^ “中村精男”. www6.plala.or.jp. 2024年12月9日閲覧。
- ^ 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
- ^ 『官報』第3110号「叙任及辞令」1922年12月12日。
ウィキメディア・コモンズには、
中村精男に関連するカテゴリがあります。
中央気象台長 (1895年 - 1923年) |
---|
中央気象台長 | |
---|
気象庁長官 | |
---|