マリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール・ド・フランス(Marie-Louise-Thérèse-Victoire de France, 1733年5月11日 - 1799年6月7日)は、フランス王ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの五女。マダム・カトリエーム(Madame Quatrième:4番目の王女の意)と呼ばれ(彼女の誕生した年に次姉が早世したためこう呼ばれた)、成長するとマダム・ヴィクトワール(Madame Victoire)と呼ばれた。「メダム」と呼ばれた王女姉妹の一員であった。
宰相のフルーリー枢機卿は国王ルイ15世に圧力をかけて、王女たちを修道院に入れようとしたが、ルイ15世は娘を溺愛し、「マダム・トロワジエーム」たるアデライードの哀願に屈して彼女を修道院に入れなかった[2]。一方でアデライードより下の娘たち(ヴィクトワール、ソフィー、テレーズ(英語版)、ルイーズ・マリー)は1738年6月よりフォントヴロー修道院で育てられ、そこで12年間過ごした[2]。ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカはこの苦渋の決断を甘受して、王女たちが修道院で暮らす12年間、テレーズが1744年9月に夭逝したときを含めて一度も修道院を訪れなかった[2]。テレーズ・ルイ・ラトゥール(Thérèse Louis Latour)が評するところでは、ルイ15世は娘と一緒にいるときには娘への愛情を示すが、一旦離れると娘たちが記憶から薄れていき、情欲と本能によって行動してしまうところがあり、それがこの行動に表れてしまったという[2]。王妃のほうは度重なる出産により体が弱くなり、夫を愛する気力しか残っていないため、「受け身で冷淡な母」になったと評した[3]。
王女たちはコーチ8台、シェーズ(英語版)2台と荷馬車20台で13日間かけてフォントヴローに到着した[4]。修道院では院長ロシュシュアール・ド・モルトマール氏(Rochechouart de Mortemart)が王女たちを喜ばせようと思い、自身と女児4名が真っ白な服を着て、笑顔で王女たちを出迎えた[4]。しかし修道女たちにはフランス王女の教育に必要な知識も経験もなく、ヴィクトワールが後年回想したところでは遺体安置所に行かせられたときの恐怖が印象に残ったぐらいだった[4]。王女たちがヴェルサイユ宮殿に戻ったときにも読み書きすらほとんどできず、修道院で上手くなったのは音楽と舞踊ぐらいだった[5]。