ヴァレリー・カルピン(Valeri Karpin, 1969年2月2日 - )は、エストニア・ナルヴァ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF(RSH、OH)。
来歴
選手時代
エストニア生まれであるが、ソ連崩壊時、国際舞台での活躍機会の多いロシア代表を選択した。
1985年に地元のクラブチーム、スポルト・タリンでキャリアをスタート。1991年にスパルタク・モスクワへ移籍すると3年連続リーグ優勝を果たし、1994年のアメリカW杯にも出場。同年リーガ・エスパニョーラ・レアル・ソシエダへ移籍し、その後バレンシアCF、セルタ・デ・ビーゴとスペインのクラブチームを転々とし、セルタではアレクサンドル・モストヴォイとともにチームの上位進出に貢献。モストヴォイとのコンビは「ロシアン・コネクション」と呼ばれ、称えられた。1999年のロシア最優秀選手にも選ばれた。
その後、2002年には日韓W杯にもロシア代表として出場し、日本代表とも対戦。同時にソシエダに復帰し、チームの中心選手として活躍した。
2004-05シーズン終了後、現役を引退し選手生活に終止符を打ったと思われたが、2007年にセグンダ・ディビシオンB(3部相当)のコルショFCと契約を結び、現役復帰した。その後改めて現役引退。
指導者時代
2008年、かつて所属していたスパルタク・モスクワのゼネラルディレクターに就任[2]。
2009年4月、成績不振により解任されたミカエル・ラウドルップの後任として同クラブの監督に就任した。
2011年4月18日、開幕から成績不振でクラブ史上最悪のスタートを切ったとして辞任を表明したが、最終的に2011-12シーズン終了まで監督を務めた。リーグ戦最終順位は2位であった。
2012年11月25日、成績不振により解任されたウナイ・エメリの後任として、年内までの暫定指揮をとった後、再びスパルタク・モスクワの監督に就任した。
ロシア・カップで3部のFKトスノに0-1で敗退、リーグ戦で下位のFCアンジ・マハチカラにホームで2-2で引き分けたことが引き金になり、2014年3月18日、解任された。
同年8月12日、セグンダ・ディビシオン・RCDマジョルカの監督に就任した。2015年2月10日、降格圏寸前の15位に低迷したため解任された。
2015年、ロシア・ナショナル・フットボールリーグへ昇格したFKアルマヴィルの監督に就任した。就任後1年でロシア・セカンドディビジョンに降格したため、2016年6月23日解任された。
2017年12月9日、FCロストフの監督に就任した。
2021年7月23日、ロシア代表の監督に就任した[3]。
事業者として
引退後はスペインに留まり、事業を開始。スペインのテレビ局「TVE2」でサッカー中継の解説も務めていた。また2007年には長年プレーしたセルタ・デ・ビーゴの本拠地であるビーゴに自転車ロードレースのコンチネンタル・プロチーム「カルピン・ガリシア(現・シャコベオ・ガリシア)」をミチェル・サルガドと共に創設。2007年のブエルタ・ア・エスパーニャはこのチーム創設を祝って第1ステージをビーゴからスタートしゴールした。
その他
レアル・ソシエダ時代のニックネームは「腐った牛乳」。カルピンのキツイ性格を意味するスペイン語のスラングである。
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 1試合 0得点(CIS、1992年)[4]
- 国際Aマッチ 72試合 17得点(ロシア、1992年-2003年)[4]
ロシア代表 | 国際Aマッチ |
年 | 出場 | 得点 |
1992 |
3 |
1
|
1993 |
6 |
0
|
1994 |
6 |
1
|
1995 |
8 |
3
|
1996 |
12 |
4
|
1997 |
2 |
0
|
1998 |
5 |
0
|
1999 |
9 |
6
|
2000 |
4 |
1
|
2001 |
9 |
0
|
2002 |
7 |
1
|
2003 |
1 |
0
|
通算 |
72 |
17
|
タイトル
選手時代
- FCスパルタク・モスクワ
- セルタ・デ・ビーゴ
脚注
出典
外部リンク