ロラン夫人 (仏 : Madame Roland 、1754年 3月17日 - 1793年 11月8日 )は、サロニエール 、フランス革命 の穏健共和派ジロンド派 の指導者の1人である。ジロンド派の黒幕 的存在だったことから「ジロンド派のミューズ 」、のちに「ロマン主義 におけるミューズ」とされた。日本では「ジロンド派の女王」とも呼ばれる[ 1] 。
本名はジャンヌ=マリー・フィリポン=ロラン、ラ・プラティエール子爵 夫人(仏 : Jeanne-Marie Phlipon-Roland, vicomtesse de La Platière )。旧姓はフィリポン(PhliponもしくはPhlippon)。
マノンはペンネーム で、マノン・ロラン とも言う。仏語版のタイトルはこちら。夫が内務大臣のジャン=マリー・ロラン (仏:Jean-Marie Roland )であったことから、夫と区別してロラン夫人 と呼ばれる。
美貌に加えて並外れた知性と教養を持っていたが、平民 出身だったために貴族 に受け入れられず、共和主義者 になる。フランス革命を主導した人物の1人となるも、次第に急進共和派山岳派 と対立し、捕らえられたロラン夫人は失意のまま処刑された。彼女が残したメモはフランス革命を知る一級資料とされている。
略歴
1754年 パリ 、シテ島 ケ・ド・ロルロージュ (フランス語版 ) 41番地の、女たらしでギャンブル好きながら彫金 師の父ガシアン(Gatien Phlipon もしくは - Phlippon)の下でプチブルジョワ 家庭に生まれる。幼少の頃より英才教育を受けて、ヴォルテール 、モンテスキュー 、プルタルコス 、ルソー らの書物に親しんだ。なかでも、ルソーが女性特有の貞操を表した"a pleasurable loss of self-control(英語版より)"という言葉に感化され、彼女はこれを"苦痛や自己犠牲を厭わない母性的な勇気"と同義に捉らえた[ 2] 。
1776年 後の夫の工業監督官ロランと交際。
1780年 20歳の年の差があったが結婚。以後、妻ロラン夫人の影響でロランは政治へ関わりを深めていく。
1784年 夫妻共々リヨン に赴く。
1790年 ロランがリヨン代議員に選ばれ、リヨンの債務削減交渉のためパリに派遣される。
1791年 夫妻共々パリに移住。オテル・ブリタニーク(Hotel Britannique 、現在のパリ1区 ヴィクトリア大通り (フランス語版 ) 20番地)においてサロン を開きブリッソー 、ロベスピエール など、特に愛人となったビュゾー ら各界の名士と交流。ジロンド派を形成する。6月、ヴァレンヌ事件 が起きる。
1792年
3月 ロランが内務大臣となる。妻ロラン夫人は夫を「父のように」慕い、ロランも完全に妻の言いなりだった。ピルニッツ宣言 のなか窮地にあった仏革命にあって、4月20日に仏革命政府(ジロンド派内閣)がオーストリアへ宣戦布告(「フランス革命戦争 」勃発)。妻の手による、国王ルイ16世 に議会(立法議会 )での拒否権 (veto)を破棄するよう提言する手紙を送付したが、6月13日に内務大臣を解任される。
8月 8月10日事件 が勃発し王権停止。ロランが内務大臣に復帰。
9月 2日、九月虐殺 が勃発。ロラン夫人は抵抗しようにも為す術もなかったが、急進共和派山岳派 と対立。ロラン夫人はダントン を口を極めて罵った。5日、立法議会が国民公会 と改称。20日、ヴァルミーの戦い で革命後の仏軍が初勝利。21日、王政廃止宣言 が出される。
11月、ルイ16世のメモや文書などがしまわれたテュイルリー宮殿 の"鉄の戸棚"(fr )が発見され、ロラン内務大臣がルイ16世の敵国内通を公表した。国王裁判へ発展してゆく。
1793年
1月21日の国王処刑後、一部の者がダントンと妥協を図ろうとするがロラン夫人が原因で失敗。
6月 山岳派との抗争激化。夫と子供、愛人を逃がした後、逮捕され投獄される。獄中で回想録を執筆する。
11月8日 Ô Liberté, que de crimes on commet en ton nom ! 「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」 という有名な言葉を残した後、処刑された。2日後、逃亡先でその知らせを聞いた夫は自殺した。
遺体はマドレーヌ墓地(fr )に埋葬されたが、後に墓地の閉鎖に伴って、遺骨はカタコンブ・ド・パリ に移送されている。
関連項目
脚注
外部リンク
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主要事件
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軍事指揮官
フランス陸軍 フランス海軍対仏大同盟軍