1792年11月16日、メヘレンはアンリ・クリスチャン・ミシェル・ド・ステンゲル(英語版)率いるフランス軍6千に降伏、その駐留軍であるオーストリアの第38ヴュルテンベルク歩兵連隊の1個大隊はメヘレンからの退去を許された。27日、ステンゲルはベルギー方面軍からの歩兵8千を率いてリエージュ近くのヴォロー=レズ=リエース(フランス語版)でナジミハーイ・スターライ・アンタル(英語版)率いるオーストリア軍の4個大隊との小規模な戦闘に勝利した。アントワープはミランダの歩兵17,600と騎兵1,245を前に11月29日に降伏した。オーストリアの駐留軍は第17ホーエンローエ連隊の第1大隊、第59フィーアゼット連隊(Vierset)の2個中隊、ヴュルツブルク歩兵連隊の4個中隊、そして砲手140人だったが、戦死2人と負傷4人の損害を出した後に降伏した。フランス軍は大砲57門、3ポンドの連隊砲50門、マスケット銃3,150丁、火薬1,523ハンドレッドウェイトを鹵獲した[3]。ヨハン・ドミニク・フォン・モイテレ(Johann Dominik von Moitelle)率いるナミュール駐留軍(第36キンスキー歩兵連隊の2個大隊、第59フィーアゼット歩兵連隊の1個大隊、ル・ルー猟兵大隊の2個中隊、第32エステルハージ・フザール連隊の半個大隊、砲手90人で計2,599人)は4週間耐えた後12月2日にヴァランスとダルヴィルに降伏した。ダルヴィル率いる軍勢は歩兵13,256、騎兵1,425、砲兵266だった[4]。
ラマーシュの前衛は歩兵4千と騎兵1千であった。オーギュスト・マリー・アンリ・ピコー・ド・ダンピエール(英語版)率いる右翼の側面軍は歩兵2千と騎兵1千であった。ヴァランスの右翼軍は18個大隊で計7千人であり、ジョアシャン・ジョゼフ・ヌイイ、アレクシス・ポール・ミシェル・ル・ヴェヌールとヴァランスの師団に分けられた。シャルトル公ルイ・フィリップは中央の歩兵18個大隊(計7千人)と騎兵1千を率いた。その副官はジャック・トゥヴェノー(Jacques Thouvenot)とドモニク・ディートマンであった[10]。ミランダの左翼軍はジャン・アレクサンドル・イーレ(Jean Alexandre Ihler)率いる7千人とフェリクス・マリー・ピエール・シェノン・ド・シャンモラン(Felix Marie Pierre Chesnon de Champmorin)率いる歩兵5千と騎兵1千だった。ジョセフ・ミアチンスキ(Joseph Miaczinski)は左翼の側面軍である歩兵2千人と騎兵1千人を率いた。予備軍はジャン・ネスター・ド・シャンセル率いる8個大隊で計4千人であった。合計すると、歩兵3万8千と騎兵5千となる[15]。
一方、カール大公の前衛は歩兵11個大隊と騎兵11個大隊であり、数人の大佐率いる旅団に分けられていた。ヨーゼフ・フォン・グルーベルは第33スタルィ歩兵連隊の2個大隊を率い、シュテファン・フォン・ミハリェヴィチ(Stephan von Mihaljevich)はマホニー猟兵連隊の3個大隊、オドネル遊撃隊の1個大隊、ブラノヴァチュキー(Branovaczky)遊撃隊の3分の1個大隊、第32エステルハージ・フザール連隊の1個大隊を率いた。アントン・ウルリヒ・ヨーゼフ・フォン・ミリウス(Anton Ulrich Joseph von Mylius)はグリューン=ラウドン遊撃隊の1個大隊、チロリアン狙撃隊の3分の1個大隊、エステルハージ・フザール連隊の1個大隊を率いた。カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルク(英語版)はチロリアン狙撃隊の1か3分の1個大隊、オドネル遊撃隊の1個大隊、ブラノヴァチュキー遊撃隊の3分の1個大隊、ウーラン連隊の3個大隊を率いた。Paul Devayはバルトダイスキー(Barthodeisky)、ブリー(Briey)、ピュクラー(Pückler)擲弾兵連隊とエステルハージ・フザール連隊の6個大隊を率いた[15]。
ヨーゼフ・フォン・フェラーリス(英語版)は第1級(1st Rank)の8個歩兵大隊と16個騎兵大隊を率い、フェルディナント・フリードリヒ・アウグスト・フォン・ヴュルテンベルクを師団の指揮官に起用した。その内訳は第10コイル(Kheul)歩兵連隊、第28ヴァルテンシュレーベン(Wartensleben)歩兵連隊、第35ブレンターノ歩兵連隊から2個大隊ずつ、第3カール大公歩兵連隊、第69ヨルディス(Jordis)歩兵連隊から1個大隊ずつ、第12カファナーグ(Kavanagh)胸甲騎兵連隊と第14ナッサウ胸甲騎兵連隊から6個大隊ずつ、第1カイザー・カラビニアー(英語版)騎兵連隊と第5アルブレヒト公カラビニアー騎兵連隊から2個大隊ずつであった。ヴェンツェル・ヨーゼフ・フォン・コロレド(ドイツ語版)は第2級(2nd Rank)の6個歩兵大隊と10個騎兵大隊を率い、師団指揮官のヨハン・アンドレアス・ベニオフスキー(Johann Andreas Benjowski)とフランツ・フィンセンツ・フェレール・フォン・ホディッツ・ウント・ヴォルフラニッツ(Franz Vincenz Ferrer von Hoditz und Wolfranitz)少将を副官とした。その内訳は第25ブレシャンヴィル(Brechainville)歩兵連隊と第54カレンベルク歩兵連隊から2個大隊ずつ、第15アルトン歩兵連隊と第57ヨーゼフ・コロレド歩兵連隊から1個大隊ずつ、第10ゼッシュヴィッツ胸甲騎兵連隊から6個大隊、第18からカラツァイ(Karaczay)シェヴォー・レジ(英語版)連隊と第37コーブルク竜騎兵連隊から2個大隊ずつであった[15]。
フランソワ・セバスチャン・シャルル・ジョゼフ・ド・クロワ(英語版)伯爵は予備軍の11個歩兵大隊と14個騎兵大隊を率い、ヨージェフ・アルヴィンチ(英語版)とヨハン・ネポムク・ゴットフリート・フォン・リュッツォフ(Johann Nepomuk Gottfried von Lützow)がその配下の指揮官を務めた。予備軍の内訳は第30リーニュ歩兵連隊、第34エステルハージ歩兵連隊、第38ヴュルテンベルク歩兵連隊から2個大隊ずつ、第55マレー(Murray)歩兵連隊、第58フィーアゼット歩兵連隊、ロイフェン、モルツィン、ルソー擲弾兵大隊から1個大隊ずつ、第31ラトゥール(Latour)シェヴォー・レジ部隊から8個大隊、第16ブランケンシュタインjフザール連隊から6個大隊であった。ネーデルラント連邦共和国からはストッカー(Stokkar)とヴァルデック連隊から2個大隊ずつ、メイ(May)とウェルデレン歩兵連隊から1個大隊ずつで計6個大隊派遣された[15]。
^Smith, Digby (1998). The Napoleonic Wars Data Book. London: Greenhill. p. 31. ISBN1-85367-276-9
^Phipps, Ramsay Weston (2011). The Armies of the First French Republic: Volume I The Armée du Nord. USA: Pickle Partners Publishing. p. 145. ISBN978-1-908692-24-5
^ abDodge, Theodore Ayrault (2011). Warfare in the Age of Napoleon: The Revolutionary Wars Against the First Coalition in Northern Europe and the Italian Campaign, 1789–1797. USA: Leonaur Ltd. p. 101. ISBN978-0-85706-598-8
Dodge, Theodore Ayrault (2011). Warfare in the Age of Napoleon: The Revolutionary Wars Against the First Coalition in Northern Europe and the Italian Campaign, 1789–1797. USA: Leonaur Ltd. ISBN978-0-85706-598-8
Phipps, Ramsay Weston (2011). The Armies of the First French Republic: Volume I The Armée du Nord. USA: Pickle Partners Publishing. ISBN978-1-908692-24-5