リリ・ブーランジェ (Marie-Juliette Olga Lili Boulanger , 1893年 8月21日 - 1918年 3月15日 )は、フランス の作曲家 。
生涯
音楽一家に生まれる。祖父フレデリックはチェリストで、祖母ジュリエットは歌手。父エルネストはオペラ作曲家で、パリ音楽院 でローマ大賞 音楽部門に輝いた経歴を持つ。のち母校で声楽教師を務めた。母ライサは旧姓ムィシェツカヤといい、ロシア の公爵 令嬢だった。結婚するまでエルネストとはパリ音楽院で師弟関係にあった。著名な音楽教師ナディア・ブーランジェ はリリの姉である。
ブーランジェ夫妻の子供のうち健康で長寿を保ったのは第2子ナディアだけで、長女は生後まもなく急死、リリ自身も臓器に障害があって医師に短命を予告されていた。にもかかわらず2歳で神童ぶりを発揮し、家族によって英才教育をほどこされた。語学力と並んで楽器の演奏能力、とりわけ初見演奏に秀で、ピアノ 、ヴァイオリン 、チェロ 、ハープ を得意とした。
4歳の時から姉にくっつきパリ音楽院の講座にもぐり込み、音楽の知識を吸収。長じてリリ自身も正式の学生となり、オルガン をルイ・ヴィエルヌ に師事しながら、音楽理論と作曲を最初は姉ナディアに、次いでポール・ヴィダル やジョルジュ・コサード 、フォーレ に学ぶ。フォーレはブーランジェ姉妹の父で同僚のエルネストと親しく、リリのことを幼児期から可愛がり、歌曲の楽譜をブーランジェ家に持ち込んでは、リリに演奏させていたという。1899年 にエルネストが他界してからは、フォーレはブーランジェ姉妹にとって、父親代わりの役目も果たしていたようだ。
1913年 にカンタータ 『ファウスト とエレーヌ』(Faust et Hélène )でローマ大賞を受賞した。これは、4度の受験の末に断念した、姉ナディアの苦渋と屈辱をリリが代わって雪いだ面もあり、一方ナディアも妹の力作を手引きしたようである。
リリ・ブーランジェの作品は、色彩的な和声 と楽器法 、歌詞への巧みな曲付けで名高い。また、幼くして老齢の父親の死を体験し、自らも常に死の影に脅かされていたことから、喪失感や不安、悲哀の感情も彼女の作品を特徴づけている。彼女の作品には、フォーレやドビュッシー への理解が見受けられ、彼女の独創的な作品は、少なくともアルテュール・オネゲル に影響を及ぼした。
免疫系 が冒される気管支肺炎 を2歳で発症したのに始まり、ついには腸結核 (現在では「クローン病 」と呼ばれる)を併発して24歳で若い命を散らすまで、リリの生活と活動は宿痾に苛まれ続けた。
旅行を愛し、ローマ大賞受賞後にイタリア でいくつかの作品を完成させたほどだったが、健康の衰えのために帰国を余儀なくされた(一説には、リリの看護と世話のために付添い人が同行することを、留学先の施設管理者が理解しなかったためといわれる)。帰国後は、病身をなげうって、第一次世界大戦 に従軍するフランス人兵士を支援するため、姉ナディアとともに文字通りに砕身粉骨した。
リリは最晩年も未完成の作品を仕上げるのに尽力したため、音楽的にみのり豊かな時期を迎えることができた。しかし、一生のうちの大半を費やした、メーテルランク 原作のオペラ 『マレーヌ姫』は完成させることができなかった。リリはアルカション で絶筆の「ピエ・イェズ」を口伝筆記で完成させた後、昏倒して永眠した。亡骸はパリのモンマルトル墓地 に埋葬されている。
名前
主要作品
カンタータ『ファウストとエレーヌ』(Faust et Hélène ) (1913年 )
交響詩『哀しみの夜に』(D'un soir triste )(1917年 - 1918年 )
ヴァイオリン(またはフルート)とピアノのための『春の朝に 』(D'un matin de printemps )(1917年 - 1918年 )
(ヴァイオリンと)ピアノのための『夜想曲 ヘ長調』『行列 ホ長調』
ピアノ曲『暗い庭から』
詩篇 第24番(1916年 )
詩篇 第130番(1910年 - 1917年 )
古い仏陀の祈り
ピエ・イエズ(1918年 )
(フランシス・ジャム の「悲しみ」による)連作歌曲集『空の晴れ間』(1913年 )
※この曲名は原題 "Clairières dans le ciel" にリリ・ブーランジェがこめた意図をどう理解すべきかが難題で、訳名づくりにあたっては、さまざまな解釈が試みられている。ここでは書籍の訳に従うが、オンライン上では「空のひらけたところ」というやや天文学めいた訳が流布するようになっているほか、「雲の切れ目」とする音楽学者もいる。
その他の歌曲・合唱曲
評伝・外部リンク
脚注