ルーネベリの記念切手(1948年)
『ストール旗手物語(英語版)』(1848年)
ルーネベリタルト
ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリ(フィンランド語: Johan Ludvig Runeberg、1804年2月5日 - 1877年5月6日)は、スウェーデン王国(現:フィンランド)ヤコブスタード出身で、スウェーデン系フィンランド人の国民詩人(英語版)。
代表作は1848年に著された長編詩『ストール旗手物語(英語版)』で、冒頭の「我が祖国 母なる大地よ(Vårt land, vårt land, vårt fosterland)」はフィンランドの国歌である「我等の地」の歌い出しに用いられていると同時に、スウェーデン語で「我等の地」を作詞したことで名高い。なお、ルーネベリがスウェーデン語で書いた「我等の地」をフィンランド語に訳した人物は同国出身の詩人、翻訳家のパーヴォ・カヤンデル(英語版)であった。
また、1916年にノーベル文学賞を受賞したスウェーデンの詩人ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタムはルーネベリを「スウェーデン語詩芸術のダ・ヴィンチ」と賞賛した[3]。
生涯
1804年2月5日、スウェーデン王国(現:フィンランド)のヤコブスタードにて、貧しい船長であった父ウルリク(Lorens Ulrik Runeberg)と母アンナ(Anna Maria Malm)の元に生まれた。
初期はヴァーサとオウルで学び、1823年はトゥルク王立アカデミー(英語版)(現:ヘルシンキ大学)に入学し、古典語を学んだ。なお、トゥルク王立アカデミーの同期には同国出身の哲学者、政治家のユーハン・ヴィルヘルム・スネルマンや作家のエリアス・リョンロートらがおり、また幼くして首都ヘルシンキへ出てきた歴史家のザクリス・トペリウスらと親しくなった。
1827年に学位を修得し、その後はルオヴェシ(英語版)やサーリヤルヴィ(英語版)で家庭教師として働いた。
1830年、処女作である詩集『詩(Runot)』を著す。
1831年には同国出身で作家のフレドリカ・ルーネベリ(フィンランド語版)と結婚し、のちに8人の子供を子宝に恵まれた[注釈 3]。
1937年にはポルヴォーやヘルシンキ大学でラテン語や修辞学の助教授を務め、ポルヴォーにあるギムナジウムにて教師としても務めた。
1848年から1860年にかけて、ルーネベリの代表作で、ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争)を描いた愛国詩『ストール旗手物語』を著す。『ストール旗手物語』の冒頭である「我が祖国 母なる大地よ(Vårt land, vårt land, vårt fosterland)」は、後にカヤンデルによりフィンランド語に訳され、フィンランドの国歌となった。
1877年5月6日、ポルヴォーで没した。
1948年に、フィンランドでルーネベリの記念切手が作られた。
2004年、ルーネベリの生誕200年を記念して記念硬貨が製造された(en:Euro gold and silver commemorative coins (Finland))。
作品
ルーネベリの作品は、当時フィンランド語が文学語で無かったため、スウェーデン語で書かれている。
- 1830年、『詩(Runot)』 - 処女作。
- 1832年、『大鹿の狩人(Hirvenhiihtäjät)』
- 1833年、『Toinen vihko』
- 1836年、『Hanna』
- 1841年、『クリスマスの夜(Nadeschda ja Jouluilta)』
- 1843年、『Kolmas vihko』
- 1844年、『フィヤーラル王(Kuningas Fjalar)』
- 1848年、『ストール旗手物語(Vänrikki Stoolin tarinat)』 - 第一部。
- 1860年、『ストール旗手物語(Vänrikki Stoolin tarinat)』 - 第二部。
- 1863年、『Salamiin kuninkaat』
子供
その他
お菓子のルーネベリタルトは、ルーネベリの名に由来する。甘いものが好きなルーネベリの為に妻のフレドリカが作ったのが最初と言われている。フィンランドでは1月からルーネベリの誕生日である2月5日までカフェなどのメニューに載るが、ポルヴォーでは一年中提供しているところもある。
脚注
注釈
- ^ ルーネベリはフィンランドの作家だが、ルーネベリが出生した1804年当時、フィンランドはスウェーデン王国の領土であったため、出生地を厳密にスウェーデンとした。
- ^ ここで示す「土曜会」とは、かつて日本に存在した貴族院の院内会派とは異なる、フィンランドの文芸団体である。
- ^ 実際は10人の子供が居たが、10人の内2人は幼少の頃に亡くなった。
出典
参考文献
外部リンク