1567年の著書 Variarum Lectionum Libri Tres は枢機卿グランヴェルに奉られ、これによりラテン語秘書官の任を受けることとなる。またグランヴェルに随行してローマを訪れる。リプシウスはローマで2年間を過ごし、空いた時間を古典ラテン語の研究や碑文の収集、バチカン図書館の写本の解読にあてていた。1575年、ローマから戻ったリプシウスは多岐にわたる分野に対する批評をまとめた Antiquarum Lectionum Libri Quinque を著す。この書は8年前の著書での Variae Lectiones と対照させたもので、前著では推測による校訂を行っていたが、この書では照合による校訂に踏み込んでいた。
リプシウスはライデンでカルヴァン主義者として11年間を過ごし、その11年間はリプシウスにとってもっとも成果を挙げた時間であった。リプシウスはセネカやタキトゥスの校訂に取り掛かり、このほかにも数多くの著書・論文を書き上げている。リプシウスの成果は純学問を扱うものであったり、古典著者の集積であったり、あるいは一般的な関心を扱うものであったりした。一般的関心を扱うものの例としては政治についての論文(Politicorum Libri Sex, 1589年)があり、このなかでリプシウスは、すでに国が寛容を言明していた国の公立大学の教員であるにもかかわらず、アルバ公やフェリペ2世の国家信条から外れた論を述べていなかった。またリプシウスは、統治機構は宗派をただ1つのみ認め、これに対する反対は武力で排除するものだと述べている。このリプシウスの言明に対しては非難が浴びせられたが、ライデン大学はリプシウスを擁護し、またリプシウスに対して声明を発表するよう促した。リプシウスはこのとき発表した声明で Ure, seca(焼き刻む)という表現を用いているが、これは積極的治療を指す言葉である。
1590年の春、スパでの湯治を口実にライデン大学を去ったリプシウスはマインツに向かい、そこでローマ・カトリック教会と和解する。このできごとはカトリック世界の関心を大いに集め、とくにイタリア、オーストリア、スペインの王宮や大学からはリプシウスを招き寄せようとする動きが起こった。ところがリプシウスは母国にとどまることを選び、ルーヴェンに居を定めて Collegium Buslidianum でラテン語の教授となった。
リプシウスは教壇に立つということを求められておらず、スペイン王フェリペ2世の枢密顧問官、史料編纂者に任じられたことでわずかな俸給の足しにしていた。リプシウスは以前と同じように論文の発表を続けており、そのおもなものとして De militia romana(1595年)や Lovanium(1605年)があった。これらの書はブラバントの全般的な歴史の入門書として作られたものであった。
^Oestreich, Gerhard (English). Neostoicism and the Early Modern State. Cambridge Studies in Early Modern History. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN978-0521088114