生まれてすぐに母アウグスタ・ライナー(Augusta Rainer)を亡くしたマリアは、父カール・クチェラ(Karl Kutschera)の手で親戚に預けられたが、父も9歳のときに失った。やがて親戚との折り合いが悪くなると、彼女は家を出て全寮制の学校に入った。1923年、マリアは、ウィーンにあるState Teachers College for Progressive Educationを卒業した。もともと音楽が好きだった彼女は青年たちのグループに加わってオーストリアの民謡を習った。キリスト教に反感をもっていたが音楽鑑賞をするためにカトリック教会のミサに参列し、やがてキリスト教に心を惹かれるようになった。
1940年になると、大手プロダクションが家族のプロデュースを引き受けるようになったが、その時に辛気臭いとの理由で「トラップ・ファミリー聖歌隊」(Trapp Family Choir)という名前を「トラップ・ファミリー合唱団」(Trapp Family Singers)に改名し、曲目から聖歌を減らしてフォークソングを中心にするよう改められた。こうしてアメリカ中をまわるようになると再び評判を呼び、1956年までコンサート活動を行った。1948年、一家はようやくアメリカの市民権を得た。
映画化・ミュージカル化とマリアたちの反応
夫ゲオルクは1947年に亡くなったが、マリアは家族の歴史をつづった The Story of the Trapp Family Singers(1949年、『トラップ・ファミリー合唱団物語』)や Around the Year with the Trapp Family (1955年、『トラップ一家の一年』)などを次々と出版し、ベストセラーになった。
1956年、ドイツの映画会社がマリアの著作の映画化権とそれに関連する権利を9,000ドルで買い取った。収入を必要としていたマリアは全ての権利を売ってしまったため、一家は以降の映画がもたらした莫大な収入の恩恵を受けられなかった。ドイツではこの著作を元に、当時のトップ女優ルート・ロイヴェリク主演の2本の映画(『菩提樹』 Die Trapp-Familie 、1956年、『続・菩提樹』 Die Trapp-Familie in Amerika 、1958年)が作られた。さらにアメリカのプロダクションがその権利を買い取りリチャード・ロジャーズとオスカー・ハマースタイン2世の売れっ子コンビが作品化を引き受け、トラップファミリー合唱団の実際の演目を使うという当初のアイデアを捨てて、完全にオリジナル曲を作ってミュージカル化した。