1990年 240エステート
1979-80年 242GT
1986年以降 244GLセダン
1989年以降販売の日本モデル
ボルボ・240 シリーズはスウェーデン の自動車メーカー ・ボルボ が1974年 から1993年 まで、累計2,862,053台を生産した乗用車である。その基本設計は1966年 登場の140 シリーズにまで遡り、モデルライフの長いボルボ車の中でも特に長寿命であった。
概要
240は140同様にヤン・ヴィルスガールド によってデザインされ、特にキャビンより後方は共通であったが、1972年 に試作車が公開された実験安全車ボルボ・VESC (Volvo Experimental Safety Car )で試みられた多くの安全対策が実用化されている。具体的には前後の衝撃吸収ゾーンの拡大(そのために前輪サスペンションをストラット式サスペンション に改め、エンジンベイを拡大した)、ステアリング機構のラック・アンド・ピニオン 方式への変更による操縦性改善などである。また、上級モデルには4気筒車としては初めてパワーステアリングが装備された。なお、衝撃吸収ゾーン拡大の目的で全長が伸ばされ、4,700mmを超えたため、2,300ccエンジンだった初期モデルから日本では3ナンバー登録車となった。1989年~90年初期に販売されたセダンモデルはGLグレードのみの販売という事情もあり、創業者の一人グスタフ・ラーソンにちなんで「ラーソン」の愛称で親しまれた。
沿革
242/244/245
1974年 秋、1975年 モデルとして2ドアセダンの「242 」(L・DL)、4ドアセダン「244 」(DL・GL)、5ドアワゴン「245 」(L・DL)の3本立てで登場した。エンジンは1974年 モデルの144と同じOHV のB20型(LとDL)と、新しいSOHC 2,127ccのB21型(DLではシングルキャブで97馬力、GLは燃料噴射で123馬力)の2種類であったが、アメリカ及び日本向けは排気ガス対策のため、DLもGL同様に燃料噴射で、1975年 モデルのみB20型であった。
1976年 モデルではB21Aエンジンの出力がカムシャフトの改良で100馬力に引き上げられ、 242Lと245L以外ではオーバードライブ5速MT が選択可能となった。
1977年 モデルではLambda Sondと呼ばれる酸素センサーが追加され、燃費や動力性能を維持しながら排気ガスの浄化が図られた。
1978年 には固められたサスペンションとスポーティな内外装を持つ「242GT 」が追加された。同年より日本向け輸出車は当時世界一厳しいと言われた「昭和53年排気ガス規制」の輸入車初の適合車となった。
1979年 にはヘッドライトが角型に改められ、トランク部分のデザインも改められた。同時に、フォルクスワーゲン 製5気筒2,000cc69馬力・6気筒2,400cc82馬力のディーゼルエンジン搭載車も追加された。
1981年 、ターボチャージャー 付きのB21ETエンジンを搭載した「244ターボ 」が登場し、2ドアセダンやエステートにも追って同エンジン搭載車が追加された。ターボモデルの4速AT には日本のアイシン 製が採用された。
240シリーズ
1983年 、モデルごとにドア数を表す最後の数字が0に統一され、全車「240 」と呼ばれることとなった。
1984年 、2ドアセダンが生産終了。
1985年 、740 の登場に伴いターボモデルが移行し、DLからGL・GLTまでの中・下級グレードのみに整理され、「ポラール」(Polar)や「SE」などの特別仕様車も多く発売された。エステートの人気はこの頃から高まり、240の総生産台数の3分の1以上がエステートであった。
1990年 にはエアバッグが、1991年 にはABSが装備されるなど、安全対策は時代とともに進化を続けた。
1993年 、前年に登場した5気筒エンジン搭載の前輪駆動車・850 の生産が本格化すると、最終モデル「クラシック」の1,600台限定生産を最後に240シリーズは生産を終了した。
日本への輸入
1974年 を最後にヤナセ がボルボ車輸入から手を引き、代わって発足した帝人 の子会社・帝人ボルボ が240を販売した。140以来安全性・信頼性から比較的多数が販売され、1986年 以降はメーカー現地法人の「ボルボ・ジャパン」、1991年 以降は「ボルボ・カーズ・ジャパン 」が輸入販売を行い、モデル末期まで特にエステートは人気があった。ただし、最後モデルである1989年~1993年モデルの240は販売メインがセダンの為、日本では1991年後半からの販売となった。
モータースポーツ
サーキットを走る240ターボ(1985年)
ボルボは240ターボを欧州ツーリングカーレース選手権 (ETC)に出走させた。240ターボはローバー・SD1 やBMW・3シリーズ などを相手に健闘し、その外観から「Flying Brick」(空飛ぶレンガ )というニックネームで知られた。ETCシリーズでは1985年 、1986年と2年連続でチャンピオンとなった。また1985年と1986年に富士スピードウェイ で開催されたインターTEC でも勝利を収めた。1985年はエッゲンバーガーが2台をエントリーし、1位と2位を独占して3位を7周遅れにした。1986年はRASが2台をエントリーし、1台は序盤でリタイアしたものの残る1台が優勝し、2位を3周遅れにした。
外部リンク