ホルヘ・ルイス・ブルチャガ(Jorge Luis Burruchaga, 1962年10月9日 - )は、アルゼンチン・エントレ・リオス州出身のサッカー選手、サッカー指導者。ニックネームはブル (Burru) 。メインのポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)だが、時にFWとしても起用された[1]。息子のロマン・ブルチャガはテニス選手、マウロ・ブルチャガはサッカー選手である[2]。
ィンデペンディエンテでは、1984年のリベルタドーレス杯で2試合を通じての決勝ゴールを決め、優勝に貢献。1986年メキシコワールドカップでは1ゴール1アシストの活躍で[3]、アルゼンチンを優勝に導いた。
クラブ経歴
CAインデペンディエンテでは、1983年にアルゼンチンリーグ優勝、1984年コパ・リベルタドーレス1次リーグ、2次リーグで9試合5ゴールを決め[4]、決勝進出に大きな役割を果たすと、決勝のグレミオ戦で1stレグで決勝ゴールを決め[4]、これが1stレグ、2ndレグを通じて唯一のゴールとなり、優勝の原動力となった[5]、同年12月日本で開催されたインターコンチネンタルカップではリヴァプールを1-0で破り優勝を果たした。
1985年、1982年と1983年にもオファーを出した、フランスのFCナントに移籍[6]。移籍初年度はリーグ2位、UEFAカップでは準々決勝まで進出した[6]。1986年のワールドカップ後、マラドーナの所属するSSCナポリが獲得に動いたが、クラブ間合意に至らず移籍は成立しなかった[6]。1987年に膝に大怪我を負い、再起不能とまで言われたこともあった[6]。数度の膝の故障により、サンプドリア、インテルへの移籍がそれぞれ破談となった[6]。その後、ナントのキャプテンを務め、1992年まで在籍した[6]。
1992-93シーズンはヴァランシエンヌFCに移籍、リーグ戦で二桁ゴールを挙げる活躍をしていたが、八百長疑惑に巻き込まれ、2年間はクラブチームでの試合からの出場停止処分を受けた[7]。
処分が明けてからは古巣インデペンディエンテに復帰、1996年の南米スーパーカップ制覇[8]や1995年のレコパカップの優勝に貢献し[9][10](1996年、神戸で開催されたグレミオ戦では試合には敗れたが、PKで1ゴールを決めている[4]。)、1998年のアルゼンチンリーグ前期リーグ、ベレス・サルスフィエルド戦を最後に引退した。
代表歴
1983年から1990年にかけてアルゼンチン代表でプレーし、1983年のコパ・アメリカでは得点数は3ゴールながら[3]大会得点王になった。
1986年、メキシコワールドカップでは、グループリーグ最終戦のブルガリア戦でゴール[3]、準決勝のベルギー戦ではマラドーナの決勝ゴールをアシスト[3]、決勝戦の西ドイツ戦ではFKからブラウンの先制点をアシスト、さらに決勝点となる3点目のゴールを決めアルゼンチンに優勝をもたらした[11]。
1990年、イタリアワールドカップでは、グループリーグ第2戦ソビエト連邦戦でゴールを決めるなど全7試合に出場[3]、決勝に進出したが、西ドイツに0-1と破れ準優勝に終わった。1994年のワールドカップアメリカ大会時、アルゼンチンサッカー協会が大会メンバーに招集すべく動いたが、フランスリーグでの八百長事件により、1996年度まで出場停止であるとFIFAが結論付けたため、メンバー入りが出来なかった[12]。代表では57試合に出場13ゴールを挙げた[13]。
指導者経歴
現役引退後は指導者として国内クラブの監督を歴任している。2005年、レイナルド・メルロの後継としてエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタの監督に就任した。
2006年にCAインデペンディエンテの監督に就任したが、2007年4月に更迭された。2008年にCAバンフィエルドの監督に就任したが、2009年3月に辞任した。
プレースタイルなど
ゴール前に突如出現してゴールを奪う感覚や、サッカーセンスの高さを武器に活躍した[1]。代表ではディエゴ・マラドーナとのプレーの相性がとてもよく、マラドーナは、自分の副官の様な存在であったとしている[14]。
個人成績
クラブでの成績
クラブ
|
リーグ
|
カップ
|
リーグ杯
|
国際大会
|
合計
|
シーズン |
クラブ |
リーグ
|
出場 |
得点
|
出場 |
得点
|
出場 |
得点
|
出場 |
得点
|
出場 |
得点
|
アルゼンチン
|
リーグ
|
カップ
|
リーグ杯
|
国際大会
|
合計
|
1980 |
アルセナル |
プリメーラB |
15 |
1 |
— |
— |
— |
15 |
1
|
1981 |
34 |
6 |
— |
— |
— |
34 |
6
|
1982 |
インデペンディエンテ |
プリメーラ |
52 |
17 |
— |
— |
|
|
|
|
1983 |
55 |
23 |
— |
— |
|
|
|
|
1984 |
29 |
10 |
— |
— |
|
|
|
|
1985 |
10 |
3 |
— |
— |
|
|
|
|
1985–86 |
0 |
0 |
— |
— |
|
|
|
|
フランス
|
リーグ
|
カップ
|
リーグ杯
|
国際大会
|
合計
|
1985–86 |
ナント |
ディヴィジオン1 |
36 |
9 |
|
|
|
|
|
|
|
|
1986–87 |
30 |
6 |
|
|
|
|
|
|
|
|
1987–88 |
10 |
2 |
|
|
|
|
|
|
|
|
1988–89 |
6 |
2 |
|
|
|
|
|
|
|
|
1989–90 |
27 |
4 |
|
|
|
|
|
|
|
|
1990–91 |
3 |
0 |
|
|
|
|
|
|
|
|
1991–92 |
28 |
4 |
|
|
|
|
|
|
|
|
1992–93 |
ヴァランシエンヌ |
32 |
10 |
|
|
|
|
|
|
|
|
アルゼンチン
|
リーグ
|
カップ
|
リーグ杯
|
国際大会
|
合計
|
1994–95 |
インデペンディエンテ |
プリメーラ |
11 |
1 |
— |
— |
|
|
|
|
1995–96 |
27 |
6 |
— |
— |
|
|
|
|
1996–97 |
31 |
9 |
— |
— |
|
|
|
|
1997–98 |
20 |
3 |
— |
— |
|
|
|
|
小計
|
アルゼンチン
|
284 |
79 |
— |
— |
|
|
|
|
フランス
|
140 |
37 |
|
|
— |
|
|
|
|
合計
|
424 |
116 |
|
|
— |
|
|
|
|
代表での成績
- 出典[15]
アルゼンチン代表 | 国際Aマッチ |
年 | 出場 | 得点 |
1983 |
7 |
3
|
1984 |
12 |
2
|
1985 |
9 |
3
|
1986 |
10 |
2
|
1987 |
1 |
1
|
1988 |
0 |
0
|
1989 |
7 |
0
|
1990 |
11 |
2
|
通算 |
57 |
13
|
脚注
外部リンク