フランチェスコ・ディ・オペレは1450年頃に宝石の彫刻や織物を織る職人の家庭に生まれた。オペレ(Opere, 「作品」の意)という姓はこれに由来している[1]。年の離れた宝石彫刻家ジョヴァンニ・デッレ・コルニオーレ(Giovanni delle Corniole)と兄弟。のちにヴェネツィアに移った[2]。肖像画が描かれた2年後の1496年に死去[2]。
肖像画が最初に登場するのは17世紀の枢機卿レオポルド・デ・メディチの目録であり、そこでは「ラファエロ・サンツィオの第二の様式」による作品として記載されていた[1][2]。19世紀にはペルジーノやヤーコポ・フランチャ(英語版)の作品と見なされた[4]。最終的にアントニオ・ラミレス・デ・モンタルボ(Antonio Ramirez de Montalvo)が板絵の裏側に碑文を発見して、最初の部分を解読し、これによりペルジーノの作品であることが判明した[4]。
フランドル絵画に影響を受けて制作された『フランチェスコ・デッレ・オペレの肖像』は若いラファエロ・サンツィオに影響を与えた。ラファエロは本作品を通して間接的にフランドルの肖像画の多くの要素を参照し、ブダペスト国立西洋美術館に所蔵されている『若い男の肖像』(Ritratto di giovane)を制作した[8]。しかし左腕全体を描いて奥行きを表現するペルジーノの手法は採っていない[7]。