ドイツのフランクフルト近郊ゼーリゲンシュタットの生まれだが、主にフランドルのブルッヘで活動している。生年ははっきりしていない。父はHamman Momlingen、母はLuca Stirn、両親は1451年ごろに死去した。ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修業したと推定され、1465年にはブルッヘの市民権を得ている。1470年には「雪の聖母兄弟団」(Gilde van Onse LieveVrouwe van der Snee)[3]に入団。1480年ごろに, Sint Joris 街に邸宅を購入。1480年 ブルッヘの富家227人の一人として皇帝マキシミリアンに戦時税を支払った。1487年 妻 Tanna逝去。財産を子供3人Hannekin, Neelkin, Claykinと分割した。1494年8月11日 逝去 ブルッヘの聖ヒーリス教会に埋葬。2006年現在、墓石は行方不明。
伝説
18世紀半ば、フランス宮廷画家でもあったジャン=バティスト・デカンが1753年に刊行したLa Vie des peintres flamands, allemands et hollandaisに、「ブリュージュの近郊ダムで生まれたメムリンクは、若いころ無頼少年で、兵士になり、傷病した。その傷ついた身体を看護治療してくれたのが聖ヨハネ病院で、そこで絵を描きだして有名になった。」という、聖ヨハネ病院の誰かから聴いたという伝説を記した。「ナンシーの戦いで負傷した」と付会したのは、1845年に、Histoire de la peintre flamande et hollandaise, Ⅱ, Brussel, 1845を刊行したA.Michielis。この伝説はFierens-Gevaert(1922)で既に、「現在では意味がない」と否定されている。
作風と代表作
シュテファン・ロッホナー、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン,ヤン・ファン・エイクの影響が感じられる宗教画のほか、寄進者像を中心とした肖像画にも優れたものが残っている。メムリンクの作品には、師のファン・デル・ウェイデンのような激しい情感の表出は見られず、画面は静寂感に満ちている。細部の精密描写は北方絵画全般に見られる特色だが、メムリンクは、金属製の鎧の表面に映った鏡像までも執拗に描写している[4]。端麗な古典主義の画家という評価がある[5]。油彩画の総カタログは(Dirk de Vos(1994))、Faggin(1973)、Friedlaender(1971)が有名である。以下、作品番号はVはDirk de Vos、 FAはFaggin、FはFriedlaenderと仮に表示しておく。
Max J. Friedlander van Eyk to Breughel, Cornell Paperbooks/Paidon Books (1981/1956) 邦訳:マックス J. フリートレンダー, ネーデルラント絵画史 ヴァン・エイクからブリューゲルまで(美術名著選書 24) 斎藤 稔/他 訳, 岩崎美術社, 1983
De Vos, Dirk; Memling, Hans (1994), Hans Memling : the complete works, Ludion Press, NCIDBA23803744
Faggin, Giorgio T. (1973). Tout l'Ouvre peint de Memling. Les Classique de l’Art. Paris: Flammarion.
Max J. Friedlader, Early Netherlandish Painting, vol VI,part 1, translated from Alt Nedellandish Marlei(1924-1937) by Heinz Norden, 1971, Leiden
Fierens-Gevaert, La peinture a Bruges. Guide historique et critique, G.Van OEST et Cie, Bruxelles et Paris, 1922