ビオが戻った後、フランス軍がスペインに侵入して政治的混乱が生じ、バレアレス諸島にまでその影響が出てきた[1]。アラゴの活動は地元民から疑われ、Mola de s'Esclopの頂上で火を焚いたのがフランス軍と連絡を取ろうとしたスパイ活動だとされ、1808年6月にベルベル城に投獄された[1]。7月28日、釣り船を奪って島を脱出し、8月3日にアルジェに漂着[1]。そこでマルセイユ行きの船を見つけ、同行させてもらえることになった[1]。しかし8月16日、マルセイユに船が近づいたころにスペイン人海賊に襲撃された[1]。他の船員と共にロザスに連れて行かれ監禁されていたが、フランス軍がロザスに到達したことで解放され、捕らわれていた人々はパラモスに送られた[1]。
1816年にはジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックとともにAnnales de chemie et de physique(化学物理学年報)を創刊し、また1818年/1819年にはビオとともにフランス、イングランド、スコットランドの沿岸で測量を行った[1]。彼らはスコットランドのリース(英語版)とシェトランド諸島で秒振り子の長さを測定し、スペインでの測定結果と共に1821年に発表した[1]。その直後、アラゴは経度局の職員に選ばれ、天文学や気象学さらには土木工学の重要な科学的知見と共に、アカデミー会員の回想録などを21年間に渡って年報に寄稿し続けた[1]。
アラゴの著作は彼の死後、J. A. Barral によって1854年から1862年に出版されたものがあり、全17巻ある[1]。
英語に翻訳された著作としては以下のものがある。
Treatise on Comets, by C. Gold, C.B. (London, 1833); also translated by Smyth and Grant (London, 1861)[1]
Euloge of James Watt, by James Muirhead (London, 1839); also translated, with notes, by Lord Brougham[1]
Popular Lectures on Astronomy, by Walter Kelly and Rev. L. Tomlinson (London, 1854); also translated by Dr W. H. Smyth and Prof. R. Grant, 2 vols. (London, 1855)[1]
Arago's Autography, translated by the Rev. Baden Powell (London, 1855, 1858)[1]
Arago's Meteorological Essays, with introduction by Humboldt, translated under the supervision of Colonel Sabine (London, 1855)[1]
Arago's Biographies of Scientific Men, translated by Smyth, Powell and Grant, 8vo (London, 1857)[1]
Hahn, Roger (1970). "Arago, Dominique François Jean". Dictionary of Scientific Biography (英語). Vol. 1. New York: Charles Scribner's Sons. pp. 200–203. ISBN0684101149。
Lequeux, James (2008), François Arago, un savant généreux (フランス語), Paris: EDP-Sciences, ISBN978-2-86883-999-2。