1760年代初期に書いた『「国家の富」と題される著作についての考察(Réflexions sur l’écrit intitulé : Richesse de l’Etat)』で、ケネーおよび重農主義派に注目された。1765年9月に『農業・商業・財政雑誌(Journal de l’agriculture, du commerce et des finances)』の編集をまかされ、それにケネーら重農学派の論文を多数掲載した。翌年、その編集の職を解かれると、1767年ケネーの著述を集成して『フィジオクラシー、または人類にとってもっとも有益な統治の自然な構成(Physiocratie, ou constitution naturelle du gouvernement le plus avantageux au genre humain)』を出版し、重農主義思想の普及に努めた。ケネーらの思想が「フィジオクラシー」と呼ばれるようになったのは、この集成のタイトルによる。1768年5月にボードーから雑誌『市民日誌』の編集を引き継ぎ、1769年から1770年にかけて、同誌にテュルゴーの『富の形成と分配にかんする諸考察』を掲載した。ただし、1772年に同誌は出版停止となった。