Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

パウル・コハンスキ

パウル・コハンスキ
Paul Kochanski
ユリアン・ファワトによる肖像画(1911)
基本情報
出生名 パウル・コハンスキ
Paul Kochanski
生誕 1887年9月14日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国オデッサ
死没 1934年1月12日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク
職業 作曲家

パヴェウ・コハィンスキポーランド語: Paweł Kochański, 1887年9月14日1934年1月12日)は、ポーランド出身のヴァイオリニスト・音楽教師・作曲家編曲家[1]ドイツ語風に「パウル・コハンスキPaul Kochanski)」もしくはロシア語風に「パーヴェル・コハンスキー」として知られており、本稿でもそれに従う。弟は日本亡命したピアニスト・音楽教師のレオニード・コハンスキ

生涯

生い立ちと音楽活動の開始

生地はロシア帝国オデッサ[2]、またはオリョールとされる[3]。父親にヴァイオリンの手解きを受け、その後7歳のときオデッサで、レオポルト・アウアー門下のエミル・ムウィナルスキに学ぶ。1898年にムウィナルスキはワルシャワに行き、1901年ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団を創設すると、14歳のコハンスキをコンサートマスターに任命した。またムウィナルスキは、コハンスキ少年を我が子同然に扱い、責任を持って養育し、世界一流の演奏家に育て上げた[4]

1903年、コハンスキは、ムウィナルスキの奔走でワルシャワの上流階級から援助を受け、王立ブリュッセル音楽院に留学してセザール・トムソンに師事することができた[1]。4年後には、最優秀賞と首席に輝いた[5]

旅するヴィルトゥオーゾとして活動に取り掛かり、ユリウシュ・ヴェルトヘイム英語版の招きでアルトゥール・ルービンシュタインと出逢ったのがこの頃である[6]。二人は音楽面では意気投合したが、若々しい情熱あふれる友情が本当の意味で始まるのは1907年になってからだった。二人は同年、ワルシャワ・フィルハーモニー協会のために、チェリストのJ. サベリーク(Sabelik)と共演して、ベートーヴェンの《クロイツェル・ソナタ》とチャイコフスキーの《ピアノ三重奏曲》を演奏した[7]1908年には、パトロンの一人であったユーゼフ・ヤロシィニスキとともに、ベルリンパリロンドンカールスバートといったヨーロッパの主要な都市で凱旋公演を行ない、1908年から1909年までルービンシュタインと、チェリストになった兄エリドイツ語版と共演して、ワルシャワ・フィルハーモニー協会のために《クロイツェル》やフランクの《ヴァイオリンソナタ》、ブラームスのピアノ三重奏曲を演奏した。

第1次世界大戦まで

1909年から1911年までワルシャワ音楽院ヴァイオリンの教授に就任する。1909年にルービンシュタインと、カロル・シマノフスキの《ヴァイオリンソナタ ニ短調》の初演を行なう。この三者の出逢いが「若きポーランド英語版」として知られる芸術運動への参加につながり、ワルシャワに進歩主義的な音楽姿勢を鼓舞することになった。1911年に、ヴェルトヘイムとの報われぬ恋に敗れたばかりのゾシア・コーン(Zosia Kohn)と結婚し、弁護士であったコーンの父親から、結婚祝いにストラディヴァリウスのヴァイオリンを贈られた。

1913年から1914年までロンドンに行き、シマノフスキとともに、ルービンシュタインからドレーパー夫妻(Paul and Muriel Draper)の音楽サロンを紹介され、そこでイーゴリ・ストラヴィンスキーと出逢う。このサークルには、パブロ・カザルスジャック・ティボーライオネル・ターティスピエール・モントゥーらの常連がいた。ストラヴィンスキーから《「火の鳥」からの3曲》の編曲を献呈される。1914年に、ベヒシュタイン・ホールにおいてルービンシュタインのリサイタルに何度か出演し、そのうち一つは同時代の音楽のみを演奏した[8]

1915年にシマノフスキの《神話》の作曲に協力。1916年にシマノフスキから《ヴァイオリン協奏曲第1番》を献呈され、この作品のためにカデンツァを創っている。同年アウアーの後任教授として1918年までペトログラード音楽院に赴任し、1919年から1920年まではキエフ音楽院の教壇に立った[1]。ペトログラードでは、1915年から面識のあったセルゲイ・プロコフィエフに《ヴァイオリン協奏曲第1番》の助言を求められている[9]

ロンドンとニューヨークへ

1920年に短期間ロンドンに定住し、ルービンシュタインと共同してウィグモア・ホールでリサイタルを開く。ロンドンではシマノフスキとも再会し、妻ゾシアも加わりブライトンに集った。シマノフスキとは1921年1月にウィグモア・ホールで共同リサイタルを開き[10]、数週間後に4人でニューヨークに向けて出発した。ポール・ドレーパーと(コハンスキのアメリカでのマネージャーである)ジョージ・エンジェルス(George Engels)が待ち受けており、コハンスキとルービンシュタインは直ちに現地の音楽界に受け入れられ、間もなくエルネスト・ブロッホの《ヴァイオリンソナタ第1番英語版》の世界初演を行なった。コハンスキーはカーネギー・ホールでのデビューでブラームスの《ヴァイオリン協奏曲》を演奏して大旋風を捲き起こし、すぐさま引く手あまたの演奏家となった。4人はイギリスに引き返したが、秋にはニューヨークに戻った。コハンスキーは1922年4月にブエノスアイレスでも演奏した[11]。この頃から活動拠点をニューヨークに移し、1924年から没年までジュリアード音楽学校で教鞭を執った[1]

1933年、すでにに蝕まれていたにもかかわらず、シマノフスキの《ヴァイオリン協奏曲 第2番》の完成を助けて、その初演を行なった。

1934年に逝去。47歳であった。

ジュリアード音楽学校で無宗教による学校葬が行われ、1,500人が列席した。その中に、フリッツ・クライスラーエフレム・ジンバリストヤッシャ・ハイフェッツといったヴァイオリニストばかりでなく、フランク・ダムロッシュウォルター・ダムロッシュセルゲイ・クーセヴィツキーアルトゥーロ・トスカニーニウラディミール・ホロヴィッツといった錚々たる顔触れの音楽家が集まった[12]

シマノフスキの《ヴァイオリン協奏曲 第2番》がコハンスキーの死後になって出版された時、故人を偲ぶ感動的な献辞が出版譜に掲げられた。

ルービンシュタインはコハンスキーを最愛の親友と呼んで慕っていた。ルービンシュタインによるとコハンスキーは真っ正直な人間を好み、トランプ遊びが好きで、時々大胆なことを口走ったという。

評価

ジュリアード音楽学校のジョン・アースキン博士(John Erskine)は次のように述懐する。

(コハンスキーの)演奏や指導がどんなに素晴らしかったことか。思うに、彼は、我々が理解している以上の巨人だったのだ。彼が生きていたなら、興味を注いでいた作曲で名を揚げただろう。[1]

草稿

ワルシャワのポーランド国会図書館の音楽部門では、コハンスキーの自筆原稿が蒐集されている。ポーランド文化省と国家遺産局は、1988年12月に、ニューヨークのサザビーズからコハンスキーの手書きの作品を買い取り、国会図書館に収蔵した[1]

出典

  1. ^ a b c d e f Kochański's Collaborative Work from the Polish Music Journal
  2. ^ Paweł Kochański”. culture.pl. 2022年5月19日閲覧。
  3. ^ Paul Griffiths "The Penguin Companion to Classical Music" (Penguin Books, 2005) p. 422.
  4. ^ H. Sachs, Arthur Rubinstein - A Life (Phoenix paperbacks, London 1997, 64).
  5. ^ A. Eaglefield-Hull, A Dictionary of Modern Music and Musicians (Dent, London 1924).
  6. ^ Sachs, ibid.
  7. ^ Sachs 1997, 103.
  8. ^ Sachs 1997, 133, 140, 142.
  9. ^ Broadfoot, Marianne (2014年). “"A new mode of expression": Karol Szymanowski's first violin concerto op. 35 within a dionysian context”. p. 167-169. 2022年5月19日閲覧。
  10. ^ Sachs 1997, 197.
  11. ^ Sachs, ibid., 200-212.
  12. ^ Sachs, ibid., 250.
Kembali kehalaman sebelumnya