アンソニー・ガイ "トニー"・カスカリーノ (Anthony Guy "Tony" Cascarino , 1962年 9月1日 - )は、イングランド ・ケント州 セント・ポールズ・クレイ 出身の元サッカー選手 、元アイルランド代表 。現役時代のポジションはセンターフォワード 。
現役時代は、イングランドとフランスの様々なクラブに在籍し、アイルランド代表としては1990年 、1994年 のFIFAワールドカップ 2回とUEFA欧州選手権1988 に出場した。現役引退後は、ラジオ局のTalksport に加え、タイムズ とアイルランドのHot Press で執筆し、イングランドのSky Sports 、アイルランドのTV3 とToday FM でも働いた。また、アイルランド放送協会 によるリアリティ番組 Celebrity Bainisteoir で優勝した。
経歴
クラブ
イングランド
3季在籍したミルウォールFC でコンビを組んでいたカスカリーノとテディ・シェリンガム
イギリス人 の母親とスコットランド のエディンバラ 出身の父(父方の祖父母はイタリア人 )の下で生まれた[2] カスカリーノは、プロサッカー選手としてのキャリアを開始する前は、地域リーグのクロッケンヒルFC (英語版 ) で活動しながら、美容師や建設現場で生計を立てていた[3] 。1982年1月に入団した3部のジリンガムFC では、翌月の敵地でのバーンリーFC 戦において初出場、出場3試合目となった本拠地でのウィンブルドンFC 戦 (1-6) において初得点を挙げる[4] と、初のフルシーズンとなった翌1982-83シーズンでの19得点を皮切りに、15得点 (1983-84) 、20得点 (1984-85) 、21得点 (1985-86) と安定して得点を量産し、1986-87シーズンはサンダーランドAFC とのプレーオフ準決勝第1戦でのハットトリック を含む30得点を挙げており、退団までに公式戦で110得点を記録した[5] 。また、現役中の活躍から、2009年にファン投票によって選定されるクラブの殿堂入りを果たした[6] 。
1987年6月、少年時代から応援するミルウォールFC とクラブ最高記録となる移籍金22万5000ポンド で合意する[5] 。ミルウォールでは、8月のミドルズブラFC 戦で初出場を飾って以降、テディ・シェリンガム と素晴らしいコンビを築いて加入1季目に2部での優勝に多大な貢献しており、退団までの公式戦128試合49得点を挙げる活躍は、別のクラブ最高記録となる移籍金へと繋がった[5] 。しかし、1990年3月に150万ポンドで移籍[5] した1部のアストン・ヴィラFC 、1991年夏に110万ポンドで移籍[5] したスコティッシュ・プレミアリーグ のセルティックFC ではそれぞれ46試合11得点、24試合4得点と成功を収めることは出来ず[7] 、セルティック移籍から7ヶ月後の1992年2月にトム・ボイド とのトレードで加入[8] したチェルシーFC でも40試合8得点と印象付けることに失敗し、1994年にはFAカップ 決勝戦に出場するも、結果を残せずタイトルを獲得出来ずにいた。その不振は、チェルシーのケン・ベイツ 会長やセルティックのリアム・ブレイディ 監督から激しい叱責を受け[9] 、ファンからもブーイングされる程だった[3] 。
フランス
チェルシー退団後にフランス へ活動の場を移したカスカリーノは、それまでの苦しい時期と一転して得点を量産する活躍から「Tony Goal」の愛称を得ていた[10] 。1994年8月、スキャンダル によってリーグ・ドゥ への降格処分を受けていた強豪オリンピック・マルセイユ と契約し、2部ながらも2季連続得点王に輝く活躍でリーグ・アン 復帰に導く(1季目は金融問題により昇格出来ず)。1996年から在籍したASナンシー では、1度降格を経験する等、決して順調ではないチーム状況だったが、ラースロー・ベレニ 監督の下でパブロ・コレア (en ) とコンビ[11] を組んで得点を量産し、ナンシーでの最後となった1999-2000シーズン (英語版 ) において、37歳ながらもリーグ・アンで15得点を挙げた[12] 。
現役引退を示唆する中、2000年4月にレッドスターFC93 から素晴らしいオファーが届いたために1年契約で合意し、3部に該当するフランス全国選手権 でプレーすることになった[13] 。しかし、ジャック・ルメー (en ) 監督はフォワードにパトリック・ヴァン・ケッツ (en ) を据えることを決定しており、クラブ幹部のミシェル・ムーラン からは自身に合うシステムはないと戦力外同然の言葉を掛けられた[12] ことも相まって、2試合目に途中出場した後に現役引退を表明し、8月19日に契約終了となった[14] 。なお、それから1週間後に前所属のナンシーから復帰のオファーがあったが、拒否している[14] 。
代表
両親はイギリス人であり、自身もイングランドに生まれたものの、母方の祖父がアイルランド共和国 のウェストポート 出身[15] のためにグラニー・ルール (英語版 ) が適用され、アイルランド代表 の出場資格を得ており、1985年9月11日の1986 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 のスイス 戦で初出場[16] を飾って以降、空中戦の強さ[17] で88試合19得点を記録し、ロビー・キーン によって塗り替えられるまで代表最多得点者だった。また、UEFA欧州選手権1988 、1990 FIFAワールドカップ ではチームの主力としてプレーし、1994 FIFAワールドカップ では負傷により欠場したナイアル・クイン の分まで更なる奮闘が期待され、グループリーグ突破に重要な鍵として目されていた[18] 。しかし、大会前にふくらはぎを負傷した[19] ことでベスト16のオランダ 戦での途中出場にとどまった[20] 。
1999年のUEFA EURO 2000予選 でのトルコ 戦で引き分けとなり、本大会 進出失敗が決定した後に代表引退を表明した[21] 。
アイルランドの市民権
2000年10月に自伝Full Time: The Secret life of Tony Cascarino が出版され、その一部がサンデー・ミラー 紙に掲載されると、1996年に母と祖父に直接的な血縁関係にないことを自身の母から明かされ「自分は代表でプレーする資格がなく、アイルランド人ではなかった」との内容に全国紙の見出しとなり[22] 、この発表にアイルランドサッカー協会 の最高責任者は衝撃を受け、ジャッキー・チャールトン 監督は情報開示に疑問を示した。また、自伝には代表での同僚であったクインとアンディ・タウンゼント (en ) に相談をしていたことも綴られていた[22] 。
騒動から4日後の11月にアイルランドサッカー協会は、常にアイルランド代表でプレーする資格があり、障害はなかったと発表した[23] 。また、アイリッシュ・インディペンデント 紙は、カスカリーノの母の名前が代表デビュー前の1985年に外国出生登録 に登録されたことでカスカリーノがパスポートを与えられていたと報じた[24] [25] 。
引退後
現役引退後は、テレビ番組Celebrity Poker Club に出演し、PartyPoker でコメンテーターを務める等、セミプロのポーカー選手 として仕事[4] をしながらも、2002年からは、スポーツラジオ局のTalksport に入社し、2005年に退社する[26] まで務め、2004年にDrive time の司会を務めていた。
2011年には、アイルランド放送協会 によるリアリティ番組 Celebrity Bainisteoir に出演[27] し、そこでゲーリックフットボール チームを率い、ポール・ガーゴディー 率いるチームを決勝で延長の末に破って優勝した[28] [29] 。
自伝
2000年に出版した自伝Full Time: The Secret life of Tony Cascarino には、市民権の問題の他、私生活やクラブでの内情を明かしており、その内容に批評家から称賛を得ている[30] 。その1つにオリンピック・マルセイユ時代にベルナール・タピ 会長の個人医から試合前にパフォーマンスを向上させる謎の物質を注射されたと綴り[31] 、2003年にもタイムズ の自身のコラムにおいて、「アドレナリンを刺激するものと聞かされたし、何かは正確には分からないが、違法なものだったと99%確信している」「自分を含め、多くの他の選手も受けていた」と暴露した[32] 。なお、当時のクラブの医師は「マルセイユにドーピングはなかったし、カスカリーノは液体状でビタミンを2、3回摂取しただけ」と完全に否定している[33] 。
私生活
1988年7月に一般人の女性と結婚し、2人の息子を授かる。しかし、フランスへ渡った際にフランス人 の一般人の女性と不倫した末に娘をもつことになり、1996年夏に前妻との離婚を選択した[34] [14] 。フランス人女性とは2000年6月に結婚し、長女を含む3人の子供を授かるが、8年後に妻は子供全員を連れてフランスへ去っていった[35] 。
獲得タイトル
クラブ
ミルウォールFC
オリンピック・マルセイユ
ASナンシー
個人
脚注
外部リンク