製造番号
戦術番号
初飛行
備考
LZ26
Z XII(Z12)
1914年12月14日
北フランスおよび東部戦線で11回の出撃を行い、20,000kgの爆弾を投下した。1915年の夏までにおよそ9トンの爆弾をワルシャワ とペトログラード を結ぶ鉄道の幹線と、マルキン(Malkin)およびビャウィストク の駅に投下した。1回の爆撃に使用する爆弾は3トンであった。1917年 8月8日 に退役した。
LZ27
L 4
1914年8月18日
北海の偵察任務を11回行ったあと1915年1月20日、イングランドへの初の爆撃に出撃した。1915年2月17日、嵐のためにBlavandshuk に不時着し、乗員は捕虜となり、4名が行方不明となった。
LZ28
L 5
1914年9月22日
北海とバルト海に47回の偵察任務を行い、特に敵の機雷発見に役立つということを証明した。攻撃任務も2回行い、700kgの爆弾を投下した。1915年8月7日、ロシア防空部隊によって修理不能の損害を受けた。
LZ29
Z X
1914年10月13日
カレー とパリ に2回の爆撃を行い、1,800kgの爆弾を投下した。帰路、敵の砲火で損害を受けてサン・キリンに不時着。のち解体された。
LZ30
Z XI
1914年11月15日
ワルシャワ、グロドノ(Grodno)および東部戦線付近の目標の爆撃に使用された。1915年5月20日に事故で破壊された。
LZ31
L 6
1914年11月3日
特筆される任務として、1914年12月25日、ドイツ沿岸へのイギリス海軍の攻撃を撃退したことが挙げられる。北海における機雷探索を含む36回の偵察任務を行い、また、1回だけイングランドの空襲を行って700kgの爆弾を投下した。1916年9月16日、フュールスビュッテル(Fuhlsbüttel)の格納庫でガスを補充していたときに炎上し、L9と共に焼失した。
LZ32
L 7
1914年11月20日
北海に77回の偵察任務を行った。イギリス沿岸への爆撃も何度か行ったが不成功に終わった。1916年5月4日、イギリス巡洋艦フェートン とガラティア の砲火により撃墜され、潜水艦E31 により破壊された。
LZ33
L 8
1914年12月17日
西部戦線での偵察任務に使用された。1915年3月5日、哨戒任務中に敵砲火により損害を受け、オーステンデ の南に墜落した。
LZ34
1915年1月6日
東部戦線で2回の爆撃を行い、1,110kgの爆弾を投下した。1915年6月21日、敵砲火により重大な損害を受け、Insterburg 付近に墜落、焼失した。
LZ35
1915年1月11日
パリとベルギーのPoperinghe に2回の爆撃を行い、2,420kgの爆弾を投下した。敵砲火によりベルギーのAeltre 付近に不時着し、その後嵐によって破壊された。
LZ36
L 9
1915年3月8日
北海の偵察任務を74回、イングランド爆撃を4回行い、5,683kgの爆弾を投下した。またイギリス潜水艦への攻撃も何度か行った。1916年9月16日、格納庫の中でL6と共に焼失した。
LZ37
1915年3月4日
1915年6月7日、カレーへの初めての空襲のときにイギリス海軍航空隊第1飛行隊のR・ウォーンフォード中尉の操縦するモラーヌ・ソルニエ L によって撃墜された。ウォーンフォードはその功績によりヴィクトリア十字勲章 を受けた。[ 8]
LZ38
1915年4月3日
1915年5月31日に初のロンドン空襲を行い、一般人の死者7名、負傷者35名を出した(物質的損害は18,596ポンドにのぼるとされた)。ハリッジ(Harwich )、ラムズゲート 、サウスエンド (2回)およびロンドンに計5回の空襲任務を遂行し、8,360kgの爆弾を投下した。ブリュッセル の格納庫にいたところをイギリス軍の爆撃を受け、破壊された。
LZ39
LZ 39
1915年4月24日
西部戦線で3回、東部戦線で2回の爆撃を行い、全体で4,184kgの爆弾を投下した。1915年12月17日、レンペルツ博士の指揮でロヴノ(Rovno )を爆撃した際、数度にわたって砲弾の破片を浴び、すべての後部ガス嚢に穴があき、前部エンジン架も損傷を受けてその後落下した。乗員は危険になった操縦室を放棄し、バラストを捨てて釣り合いを取り戻すとともに、後部の緊急操縦室を使用してなんとかドイツへ戻ろうとした。しかし不時着した時点で、使用不能となった気嚢を再び使用するために必要な材料もガスの供給もなかったため廃棄された。[ 9]
LZ40
L 10
1915年5月13日
北海の偵察任務を8回、イングランド爆撃を5回行い、9,900kgの爆弾を投下した。1915年8月17-18日のロンドンへの最初の爆撃の際、レイトン(Leyton )に落ちた爆弾により民間人10名が死亡し、48名の負傷者を出した。1915年9月3日の雷雨によりCuxhaven 付近で破壊された。
LZ41
L 11
1915年6月7日
ユトランド沖海戦 中を含む31回の偵察任務と、12回のイングランド爆撃を行い、15,543kgの爆弾を投下した。L11の乗員の一部は不運なL48(LZ95)に移った。[ 10] 。1916年4月25日に除籍された。
LZ42
LZ72
1915年6月15日
骨組みの金属の質が低かったため、練習船としてのみ使われた。1917年2月に廃棄された。
LZ43
L 12
1915年6月21日
5回の偵察任務を行った。1915年8月10日、ロンドン、ハリッジおよびハンバー(Humber )地域への空襲任務で大破しオーステンデ まで曳航された。その後、分解作業の途中で焼失した。
LZ44
LZ74
1915年7月8日
イングランド爆撃を2回行い、3,500kgの爆弾を投下した。1915年10月8日に霧の中で山に衝突し、解体された。
LZ45
L 13
1915年7月23日
偵察任務を45回、イングランド爆撃を15回行い、20,667kgの爆弾を投下した。1917年4月25日に廃棄された。
LZ46
L 14
1915年8月9日
ドイツ海軍の飛行船として最も大きな実績を挙げた。偵察任務を42回、イングランド爆撃を17回行い、22,045kgの爆弾を投下した。1917年から1918年の間に退役し、1919年4月25日に乗員の手によって破壊された。
LZ47
LZ77
1915年8月24日
イングランド爆撃およびフランス爆撃を6回実施し、12,610kgの爆弾を投下した。1916年2月21日、ヴェルダンの戦い において敵砲火により破壊された。
LZ48
L 15
1915年9月9日
偵察任務を8回、イングランド爆撃を3回実施し、5,780kgの爆弾を投下した。1916年4月1日のロンドン空襲時にダートフォード(Dartford )砲台からの対空砲火によって損傷し、テムズ 河口のノック・ディープに不時着した。乗組員のうち1人が死亡し、他の17人は捕虜となった。
LZ49
LZ79
1915年8月2日
ブレスト・リトフスク とコーベル(Kovel )に2回の爆撃を行い、4,440kgの爆弾を投下した。また1916年1月30日にはパリの爆撃を行ったが、その際、フランス軍の砲火によってベルギーのアート(Ath )近郊に不時着し、修理不能な損害を受けた。
LZ50
L 16
1915年9月23日
偵察任務を44回、イングランド爆撃を12回実施し、18,048kgの爆弾を投下した。1916年冬にはドイツの島嶼への物資補給を行った。1917年10月19日、ブルンスビュッテル(Brunsbüttel )近郊に不時着し、修理不能な損害を受けた。
LZ51
LZ81
1915年10月7日
東南および西部戦線で使用された。1915年11月9日、外交使節団を敵地であるセルビア 上空を通過して運んだ。フランスのÉtaples への爆撃を1回、ブカレスト への爆撃を2回行い、全部で4,513kgの爆弾を投下した。1916年9月27日、ブルガリア のタルノヴォ 近郊に不時着した。(Luftschifferalltag ハンガー内のZ81の下でのクリスマス式典テーブル)
LZ52
L 18
1915年11月3日
1915年11月17日、トンデルン(Tondern 、現デンマークのテナー)での補給中に発火して焼失。
LZ53
L 17
1915年10月20日
偵察任務を27回、イングランド爆撃を9回実施し、10,724kgの爆弾を投下した。1916年12月28日、LZ69(L24)が格納庫の入り口で骨格を折って炎上した際に、格納庫内で破壊された。
LZ54
L 19
1915年11月27日
1916年1月31日、イングランド空襲を1回実施し、1,600kgの爆弾を投下した。3基のエンジンが故障し、その後オランダ軍の砲火を受けて北海に墜落、沈没した。近くにイギリスのトロール漁船「キング・スティーブン」がいたが、漁船が一切の救助を拒否したため、すべての乗員が溺死した。[ 11] [ドイツ海軍・レーヴェ大尉]
LZ55
LZ85
1915年9月12日
ミンスク 、ラトビア のデューナブルク およびリガ の鉄道の爆撃を6回実施し、14,200kgの爆弾を投下した[ 9] 。1916年5月5日、イギリス戦艦アガメムノン の砲火により損傷を受け、ウォーダー沼沢地に墜落した。
LZ56
LZ86
1915年10月10日
東部およぶ東南部戦線において7回の爆撃を行い、14,800kgの爆弾を投下した。1916年9月3日、空襲を行ったあと、前部と後部のエンジンナセルが船体から脱落した。
LZ57
LZ87
1915年12月6日
ラムズゲート とマーゲート に2回の爆撃任務を行い、3,000kgの爆弾を投下した。1916年7月にドイツ海軍に移管されバルト海 の偵察任務を16回実施した。その後教育用として使われ、1917年7月に廃棄された。
LZ58
LZ88/L 25
1915年11月14日
偵察任務を14回、西部戦線の爆撃を3回実施し、4,249kgの爆弾を投下した。1917年1月、ドイツ海軍に移管され各種試験に利用された。1917年9月に解体された。
LZ59
L 20
1915年11月21日
LZ59 偵察任務を6回、イングランド爆撃を2回行い、2,864kgの爆弾を投下した。1916年5月4日の2回目の爆撃の後、燃料を使い果たしてがノルウェー のスタヴァンゲル 付近に墜落した。乗員は拘禁されたが、シュタッベルト大尉は6ヵ月後に脱走した。
LZ60
LZ90
1916年1月1日
4回の爆撃任務をバル=ル=デュック 、ノリッジ 、ロンドンおよびEtaples , に対して行い、8,860kgの爆弾を投下した。1916年11月7日、嵐によって北海方面に流され、行方不明となった。
LZ61
L 21
1916年1月10日
偵察任務を17回、イングランド爆撃を10回実施し、14,442kgの爆弾を投下した。1916年11月28日、ローストフト(Lowestoft )沖でイギリス空軍のパイロットエグバート・キャドバリー 中尉の操縦する戦闘機に迎撃され、その焼夷弾 によって撃墜された。
LZ62
L 30
1916年5月28日
スーパー・ツェッペリン級の最初の飛行船であり、55,200 m3 の容積を持っていた。イングランドに10回の爆撃を行い、23,305kgの爆弾を投下した(しかし、照準が劣悪だったため損害は限定的だった)。北部、バルト海および東部戦線に31回の偵察任務を行い、1917年11月17日に退役し、ゼーラッペンに置かれた。1920年に戦時賠償としてベルギーに引き渡され、その後分解された。エンジン架を含むいくつかの部分はブリュッセルの王立軍事歴史博物館に保存されている。
LZ63
LZ93
1916年2月23日
ダンケルク 、マーディック(Mardick)およびハリッジに3回の爆撃を行い、3,240kgの爆弾を投下した。1917年に解体された。
LZ64
L 22
1916年3月3日
偵察任務を30回、イングランド爆撃を8回行い、9,215kgの爆弾を投下した。1917年5月14日、偵察任務中に、イギリス海軍航空隊のロバート・レッキー中佐(後に空軍少将)の操縦する飛行艇カーチス H12にテルスヘリング 近郊で撃墜された。[ 12] (レッキーはLZ112(L70)の撃墜も記録している。)
LZ65
LZ95
1916年2月1日
1916年2月21日、ヴィトリ=ル=フランソワ(Vitry-le-François )爆撃中にフランス軍の対空砲火で撃墜された。
LZ66
L 23
1916年4月8日
偵察任務を51回、イングランド爆撃を3回行い合計5,254kgの爆弾を投下した。1917年8月21日、巡洋艦ヤーマス 艦上から飛び立ったソッピース・パップ (バーナード・A・スマート少尉操縦)によって撃墜された。スマートは後にL54とL60を破壊したトンデルン空襲を指揮している。
LZ67
LZ97
1916年4月4日
ロンドン(2回)、ブローニュ=シュル=メール およびブカレストに計4回の爆撃任務を遂行し、5,760kgの爆弾を投下した。そのほか成功しなかったが何度か悪天候での飛行を行っている。1917年7月5日に解体された。
LZ68
LZ98
1916年4月28日
ロンドン爆撃を1回行い、1,513kgの爆弾を投下した、他に何回か悪天候により中止された数回の飛行を試みている。1916年11月にドイツ海軍に引き渡され、バルト海周辺に15回の偵察任務を遂行した。1917年8月に解体たれた。
LZ69
L 24
1916年5月20日
北海の偵察任務を19回、イングランド爆撃を4回実施し、8,510kgの爆弾を投下した。1916年12月28日、格納されている状態で壁に衝突し、LZ53(L17)と共に焼失した。
LZ70
未完成
LZ71
LZ101
1916年6月29日
ブルガリア のヤンボル(Yambol )に基地をもち、ブカレスト、Ciulniţa 、フェテシュティ 、ガラツィ 、オデッサ 、ミティリニ(Mytilene )、ヤシ およびムズロス(Mudros )への7回の爆撃で11,934kgの爆弾を投下した。1917年9月に解体された。
LZ72
L 31
1916年7月12日
LZ72またはLZ74 サンダーランド に対する艦隊作戦の一翼を担う重要な偵察任務に1回従事した。6回のイングランド爆撃で19,411kgの爆弾を投下した。1916年9月23日夜にL32、L33とともに司令船としてツェッペリン爆撃を敢行したが、V・テンペスト中尉の操縦するイギリス戦闘機にロンドンの北、ポッターズ・バーの付近に撃墜された。そのときの指揮官はハインリッヒ・マティ大尉であった。乗員らはツェッペリンから急いで逃げようとしたが、爆発の衝撃で全員が死亡した。
LZ73
LZ103
1916年8月23日
カレー 爆撃に1回だけ成功し、1,530kgの爆弾を投下した。それ以外の数回の爆撃作戦は悪天候のために中止された。1917年8月に解体。
LZ74
L 32
1916年8月4日
サンダーランド への艦隊作戦のための重要な偵察を1回、イングランド爆撃を3回行い、6,860kgの爆弾を投下した。1916年9月23日の夜、ヴェルナー・ペーターセン大尉の指揮するL32は、L31、L33およびL34とともにツェッペリン空襲を行ったが、イギリスのフレデリック・ソウレイ少尉の操縦する第39飛行中隊のBE2c 戦闘機に迎撃され、エセックス州のグレート・バーステッド付近に墜落して乗員全員が死亡した[ 13] 。彼らの遺体はグレート・バーステッドに埋葬されたが、1966年に掘り起こされ、カノック・チェイス(Cannock Chase )に改葬された[ 13] 。
LZ75
L 37
1916年11月9日
北海、バルト海およびイングランドの偵察を17回、爆撃を4回実施し、6,450kgの爆弾を投下した。1917年12月24日に退役し、分解のうえ1920年に日本に引き渡された。
LZ76
L 33
1916年8月30日
1916年9月24日、L31、L32、L33およびL34からなるツェッペリン部隊の1隻としてロンドンおよび周辺の地域を爆撃した際、対空砲火によって甚大な損害を被った。指揮官アロイス・ボッカー大尉はエセックスに進路を向けたが、ヘイノート・ファームから発進した第39本土防空隊の夜間戦闘機の攻撃により数度にわたって命中弾を受けた(シリアル4544のB.E.2cの戦果とされている)。ボッカーは銃砲や装備を投棄するなどの対応を行ったが、結局北海を越えて帰還するのは不可能と判断し、1916年9月24日、エセックス 州リトル・ウィグバラに不時着した。死者はなかった[ 13] 。乗員たちは船体の焼却を試みたがかろうじて一部を燃やすことができただけだった。イギリスの技術者はその骨格を調査し、後日、飛行船R33およびR34を建設する際の基礎とした。
LZ77
LZ107
1916年10月16日
フランスのブローニュ=シュル=メール 爆撃を1回だけ行い、1,440kgの爆弾を投下した。それ以外の数回の爆撃作戦は悪天候のために中止された。1917年6月に解体。
LZ78
L 34
1916年9月22日
偵察任務を3回、イングランド爆撃を2回行い、3,890kgの爆弾を投下した。1916年11月28日、ハートルプール(Hartlepool )沖合でイギリスのイアン・ピヨット少尉の操縦するBE2c戦闘機(2738)によって撃墜された。ピヨットはあまりに近づきすぎて彼の顔がこげたように感じたという。
LZ79
L 41
1917年1月15日
北海付近の偵察を15回、イングランド爆撃を4回行い、6,567kgの爆弾を投下した。1917年12月11日以降は練習船として使用された。1919年6月23日、その乗員により破壊された。
LZ80
L 35
1916年10月20日
北海・バルト海周辺の偵察を13回、イングランド爆撃を3回行い、4,284kgの爆弾を投下した。1918年9月解体。
LZ81
LZ111
1916年12月20日
ドイツ陸軍で使われないまま1917年5月に海軍へ移管。バルト海周辺の偵察任務を7回行った。1917年8月10日解体。
LZ82
L 36
1916年11月1日
4回の偵察任務を含む20回の飛行を北海およびイングランドに行った。1917年2月7日、霧の中でレーベン・アン・デア・アーラー(Rehben-an-der-Aller)に着陸して損傷を受け、解体された。
LZ83
LZ113
1917年2月22日
東部戦線とバルト海周辺への15回の偵察と3回の爆撃を行い、6,000kgの爆弾を投下した。1920年、戦争賠償 としてフランスに引き渡された。
LZ84
L 38
1916年11月22日
1916年12月29日、レバル(現タリン )およびサンクトペテルブルク の爆撃に向かう途中で豪雪のため不時着し、修理不能な損害を受けた。
LZ85
L 45
1917年4月12日
北海周辺の偵察を12回、イングランド爆撃を3回行い、4,700kgの爆弾を投下した。1917年10月20日、燃料切れでフランスのシストロン(Sisteron )付近に不時着して破壊された。乗員は捕虜となった。
LZ86
L 39
1916年12月11日
北海周辺の偵察を2回、イングランド爆撃を1回行い、300kgの爆弾を投下した。その帰り、1917年3月17日にフランスの高射砲によってコンピエーニュ 付近に撃墜された。
LZ87
L 47
1917年5月11日
北海周辺およびイングランドに18回の偵察と3回の爆撃を行い、3,240kgの爆弾を投下した。1918年1月5日に、アールホルン(Ahlhorn)航空基地で大爆発があり、3つの隣接した格納庫に収容されていた、L47を含む4隻のツェッペリン飛行船と1隻の非ツェッペリン型飛行船が破壊された。この事件については、破壊活動 によるものであった可能性は除外できないが、事故であったと考えられる。
LZ88
L 40
1917年1月3日
偵察を6回、イングランド爆撃を2回行い、3,105kgの爆弾を投下した。ただしそのほとんどは目標を逸れた。1917年6月16日、ノルトホルツ(Nordholz )で着陸に失敗し、修理不能な損害を受けた。
LZ89
L 50
1917年6月9日
北海周辺の偵察を5回、イングランド爆撃を2回行い、4,135kgの爆弾を投下した。1917年10月20日、燃料切れでフランスのダンマルタン(Dammartin )に不時着した後、地中海 付近まで運ばれた。
LZ90
LZ120
1917年1月31日
偵察を17回、東部戦線とバルト海周辺の爆撃を3回行い、11,250kgの爆弾を投下した。1917年10月8日に退役。1920年になって戦争賠償 としてイタリアに引き渡されたが、その1年後、ガスを抜かれて分解された。
LZ91
L 42
1917年2月21日
偵察任務を20回、イングランド爆撃を4回行い、6,030kgの爆弾を投下した。1918年6月6日以降は練習船として使用された。1919年6月23日、乗員の手によって破壊された。本船は「高空」クラスの最初の1隻である。上昇限度を改善するために軽量化された構造を持っていたが、その結果構造強度は損なわれており、イギリスのR38(ZR-2) とアメリカのシェナンドー(ZR-1) はそれに気づかずコピーしたため、致命的な結果となった。
LZ92
L 43
1917年3月6日
偵察を6回、イングランドのドック爆撃を1回行い、1,850kgの爆弾を投下した。1917年6月14日、偵察任務遂行中にイギリスの戦闘機に撃墜された。
LZ93
L 44
1917年4月1日
偵察任務を8回、イングランドおよびイギリス海軍部隊の爆撃を4回行った。1917年10月20日、激しい嵐によって南方のフランスに流され、リュネヴィル(Lunéville )上空で撃墜された。
LZ94
L 46
1917年4月24日
北海周辺の偵察を19回、イングランド爆撃を3回行い、5,700kgの爆弾を投下した。アールホルンでの爆発事故(「LZ87(L47)」参照)で破壊された。
LZ95
L 48
1917年5月22日
L11の乗員の一部がL48へ移った[ 10] 。偵察任務を1回こなした後、他の3隻とともにロンドン空襲を命じられたが、イギリスの戦闘機に迎撃され、任務は失敗した。L48は1917年6月17日、グレート・ヤーマス (Great Yarmouth )付近で撃破され、レストン(Leiston )近郊に墜落した。生存者は3名だった。死亡した乗員はサフォーク 州セバートン(Theberton )に埋葬された。[ 14] [ 15] [ 16]
LZ96
L 49
1917年6月13日
北海周辺の偵察を2回、イングランド爆撃を1回行い、2,100kgの爆弾を投下した。1917年10月20日、爆撃の帰路にブルボンヌ=レ=バン(Bourbonne-les-Bains )付近に不時着し、ほとんど無傷でフランス軍に捕獲された。このLZ96を基礎にしたツェッペリン型飛行船の建造が後日アメリカで行われ、飛行船ZR-1「シェナンドー」となった。
LZ97
L 51
1917年6月6日
偵察を3回、イギリス海岸地域の爆撃を1回行い、280kgの爆弾を投下した。アールホルンでの爆発事故(「LZ87(L47)」を参照)で破壊された。
LZ98
L 52
1917年7月14日
偵察を20回行った。爆撃任務の際、予期せぬ嵐によって偶然ロンドン上空に運ばれ、2,020kgの爆弾をそこに投下した。1919年6月23日、乗員の手によって破壊された。
LZ99
L 54
1917年8月13日
14回の偵察任務と2回のイングランドへの爆撃任務に従事し、5,840kgの爆弾を投下した。航空母艦 フューリアス から発進した7機のソッピース キャメル 戦闘機によりトンデルンの格納庫を爆撃され、L60と共に破壊された。(7機の戦闘機のうちフューリアスに帰りつけたのは2機のみであり、他に3機が燃料不足によりデンマークに不時着した。)
LZ100
L 53
1917年8月8日
19回の偵察と4回のイングランド爆撃を行い、11,930kgの爆弾を投下した。1918年8月11日、カリー空軍大尉の操縦するソッピース キャメル(N6812)によって迎撃され、破壊された。同機は駆逐艦 リダウト によって曳航されたライター(lighter)から飛び立ったものであった。
LZ101
L 55
1917年9月1日
2回の爆撃任務で5,450kgの爆弾を投下した。2回目に当たる1917年10月19日の爆撃のときに重大な損害を受け、西部戦線の背後に流され、逃走するためにツェッペリン史上最高となる高度7,600 mを記録した。その後不時着により破壊された。
LZ102
L 57
1917年9月26日
アフリカ での戦闘を予測されたが実戦では用いられなかった。1917年10月8日に強風により修理不能な損害を受けた。
LZ103
L 56
1917年9月24日
偵察を17回を実施し、1918年8月6日、最後のイングランド空襲に参加した。1919年6月23日に乗員の手で破壊された。
LZ104
L 59
1917年10月30日
「アフリカ号」(das Afrika-Schiff )として知られ、ブルガリアのヤンボル(Yambol )に基地を置いた。L59はドイツ領東アフリカ のドイツ軍の増援任務に出発したが、ドイツ降伏という(間違った)報告を受けて引き返した。それでもL59は長距離飛行記録(95時間5分、6,757km)を破った。その後イタリアのナポリ 爆撃を1回行い、6,400kgの爆弾を投下した。1918年4月7日、マルタ 空襲の際に墜落したが原因は分かっていない。
LZ105
L 58
1917年10月29日
偵察任務を2回実施した。アールホルンの爆発事故で破壊された(「LZ87」(L47)参照)。
LZ106
L 61
1917年12月12日
9回の偵察と2回のイングランド爆撃に従事し、4,500kgの爆弾を投下した。1920年、戦争賠償 としてイタリアに引き渡された。
LZ107
L 62
1918年1月19日
2回の偵察任務と2回のイングランド爆撃に従事し、5,913kgの爆弾を投下した。1918年4月12日から13日にかけての空襲において、本船の機銃手は追撃する飛行機に損害を与え、撃退することに成功した。これはこの種の出来事の、知られている唯一の例である。1918年5月10日、フェリックストウF2A飛行艇(N4291。パッティンスン大尉およびマンデイ大尉)によりヘルゴランド の北方に撃墜された。[ 17]
LZ108
L 60
1917年12月18日
偵察を11回、イングランド爆撃を1回行い、3,120kgの爆弾を投下した。航空母艦フューリアス から発進したソッピース キャメルによる格納庫爆撃により、L54とともに破壊された。
LZ109
L 64
1918年3月11日
北海上空の偵察を13回行った。L60、L61、L62およびL63とともにイングランド爆撃を行い2,800kgの爆弾を投下した。1920年に戦争賠償としてイギリスに引き渡されたが、破損したイギリスの飛行船R36が格納庫を必要としたため、ほどなく廃棄された。[ 18]
LZ110
L 63
1918年3月4日
最後のイングランド空襲である1918年8月6日を含む3回のイングランド爆撃を行い、8,915kgの爆弾を投下した。1919年6月23日に乗員の手によって破壊された。
LZ111
L 65
1918年4月17日
1918年8月6日の最後のイングランド空襲に参加した。1919年6月23日に乗員の手によって破壊された。
LZ112
L 70
1918年7月1日
海軍飛行船部隊司令官ペーター・シュトラッサー 中佐の指揮により1918年8月6日、最後のイングランド爆撃を行った。北海の上空においてエグバート・キャドバリー 少佐操縦、ロバート・レッキー 大尉(のち空軍少将)同乗(機銃手)のデ・ハビランド DH-4 に撃墜され、シュトラッサー以下の全乗員が戦死した。この2人はL70以前に2隻(キャドバリーはL21、レッキーはL22)を撃墜している。
LZ113
L 71
1918年7月29日
戦争で使われることなく、1920年に戦時賠償としてイギリスへの譲渡が命じられた。イギリスの飛行船R36が損傷修理のため格納庫を必要としたとき、速やかに廃棄された。
LZ114
L 72
1920年2月9日
戦争終結により未完成のまま、1920年に戦争賠償としてフランスへの譲渡が命じられた。その後、118時間連続飛行の世界記録を樹立した[ 19] 。1923年に地中海上空で消息を絶った。フランス名「ディズミュード(Dixmude)」。
LZ115
未建造
LZ116
未建造
LZ117
未建造
LZ118
未建造
LZ119
未建造