チャーリー・ウォーターズ(Charlie Waters、1948年9月10日 - )はフロリダ州マイアミ出身のアメリカンフットボール選手。NFLのダラス・カウボーイズで1970年から1981年までプレーした。ポジションはセイフティ、コーナーバック。
経歴
プロ入りまで
フロリダ州マイアミで生まれた彼はサウスカロライナ州ノースオーガスタで育った[1]。
高校時代はクォーターバックを務めた[2]。クレムゾン大学に進学した彼は3年次の1968年に先発QB争いを行い、相手選手が練習でひざを故障したことから勝利した。開幕からチームは0勝3敗1分の成績となり、ライバルが故障から復帰するとQBからスプリットエンドにコンバートされた。
4年次の1969年にはワイドレシーバーとして68回のレシーブで1,196ヤードを獲得、4タッチダウンをあげて、アトランティック・コースト・カンファレンスのオールチームに選ばれた。1981年にクレムゾン大学の殿堂入りを果たした[3]。
ダラス・カウボーイズ
1970年のNFLドラフト3巡でダラス・カウボーイズに指名された。プロ入り後、ディフェンシブバックにコンバートされた彼は1年目の1970年をフリーセイフティクリフ・ハリスの控えとなった。ハリスが兵役のため欠場したことから6試合に先発出場、5インターセプトをあげてNFLオールルーキーチームに選ばれた[3]。この年チームは第5回スーパーボウルに出場したが敗れた。
2年目の1971年、コーナーバックにコンバートされた。スピードがそれほどなかった彼は、ワシントン・レッドスキンズのチャーリー・テイラーなどにやられまくり、トム・ランドリーヘッドコーチにお前のせいで負けたと言われたこともある。1975年シーズン前にコーネル・グリーンが引退するとストロングセイフティにコンバートされて、この年3インターセプト、1タッチダウンをあげた。チームは第10回スーパーボウルに出場したがピッツバーグ・スティーラーズに敗れた。
チームメートのクリフ・ハリスとのタンデムは同時代屈指のコンビとして相手チームに恐れられた。オールプロに2回(1977年、1978年)、プロボウルに3回(1976年、1977年、1978年)選ばれた[1][3]。
この年のセントルイス・ラムズとのプレーオフでは1インターセプト及びパントブロックを2回決めた[3][4]。
1977年のディビジョナルプレーオフ、シカゴ・ベアーズ戦では3インターセプトをあげた[1]。NFCチャンピオンシップゲームでのラムズ戦では2インターセプト、1ファンブルリカバーをあげて28-0の勝利に貢献した[4]。
1979年は怪我のため全休したが[4]、1980年に復帰すると5インターセプトをあげた。。1981年も3インターセプトをあげて、NFCチャンピオンシップゲームでサンフランシスコ・フォーティナイナーズに敗れた試合を最後に現役を引退した。フォーティナイナーズが28-27で勝利したドワイト・クラークのザ・キャッチと呼ばれるプレーで彼はタイトエンドをマークしていた[2]。
キャリアでカウボーイズ歴代3位となる41インターセプトをあげている[1]。またプレーオフ25試合に出場し、NFLタイ記録となる9インターセプトをあげている[1][4]。
連続した2試合でパントブロックを4回成功したことがある[3]。プレースキックではホールダーを務めた。
スーパーボウルには第5回、第6回、第10回、第12回、第13回と出場し、第6回と第12回の2度優勝している[2]。
カウボーイズのシルバーアニバーサリーチームに選ばれている[3]。
現役引退後
現役引退後はCBSスポーツの解説者となり、その後1988年よりデンバー・ブロンコスのアシスタントコーチ[1]を7シーズン務め、1989年には第24回スーパーボウルに出場、1993年、1994年にはウェイド・フィリップスヘッドコーチの下でディフェンスコーディネーターを務めた[3][5]。1995年にはオレゴン大学のディフェンスコーチを務め、チームはコットンボウルに出場した[3]。
2001年にプロフットボール殿堂候補にノミネートされた[3]。
2006年にベイブ・ローフェンバーグに代わって、カウボーイズ・ラジオネットワークのラジオ解説者に起用された[6]。2007年2月、多忙を理由に1シーズンで解説者を辞任することを発表した。
脚注
関連項目
外部リンク