タスリマ・ナスリン (ベンガル語: তসলিমা নাসরিন; ローマ字表記: Taslima Nasreen / Taslima Nasrin; 1962年 8月25日 -) は、バングラデシュ の作家、フェミニスト 、人権活動家 。1990年代 から新聞・雑誌にイスラム教 による女性の抑圧について記事を掲載したことでイスラム原理主義 団体の攻撃を受けるようになり、さらに1993年 にイスラム教徒によるヒンドゥー教徒 迫害を告発した『恥 (Lajja )』を発表したことで、過激派 がナスリンの殺害を呼びかけるファトワー を発令。翌94年にはカルカッタ(現コルカタ )の英字新聞に掲載された記事に「コーラン は書き換えられるべきである」と書いたために、大規模なデモが各地で行われ、バングラデシュ刑法 第295 a条に定める冒涜 にあたるとして逮捕。保釈 されたものの、出国を余儀なくされた。
以後、亡命 生活を続けながらも精力的に執筆活動を続け、世界各国で人権 、女性の権利 、世俗主義 、表現の自由 等について講演会を行い、その功績により、欧州議会 の思想の自由 のためのサハロフ賞 、寛容 と非暴力 促進のためのユネスコ ・マダンジェート・シン賞、女性の自由のためのシモーヌ・ド・ボーヴォワール賞 など数多くの賞、名誉博士号 、名誉市民 の称号等を受けた。
活動・業績
医師として
タスリマ・ナスリンは1962年8月25日、東パキスタン (現バングラデシュ )のマイメンシン に医師の娘として生まれた。ナスリンも医学を専攻し、1985年 から地元の産婦人科 病院、1990年 から1993年 まではダッカ の国立病院に勤務した[ 1] 。
作家として
一方、すでに13~14歳頃から詩を書き始め、1980年代から詩や小説を発表。1990年代には新聞・雑誌に女性の抑圧を告発する記事を掲載し、男性優位社会やイスラム法 を容赦なく批判した。新進気鋭の作家として注目される一方、イスラム原理主義者らの反感を買うようになり、1992年 、ナスリンの本を置いていた書店が攻撃された[ 1] 。
『恥 (Lajja )』
1992年12月、ウッタル・プラデーシュ州 (インド )のアヨーディヤー でムガル帝国 初代スルタン のバーブル が建設したバーブリー・マスジド がヒンドゥー原理主義 集団により破壊される事件が起き(アヨーディヤー事件)、これ以降インド各地でヒンドゥー原理主義者のイスラム教徒への攻撃が始まり、対抗してパキスタン やバングラデシュではヒンドゥー教徒に対する迫害が強まった[ 2] 。ナスリンは翌1993年 2月に、イスラム教徒によるヒンドゥー教徒迫害を告発した『恥 (Lajja )』を出版。イスラム原理主義者らはさらに怒りを募らせ、過激派がファトワーを発令。ナスリンの殺害に5万タカ の賞金をかけた。ナスリンは警察の保護下に置かれながら執筆活動を続けた。翌94年5月、今度はナスリンがカルカッタの英字新聞『ステーツマン』に掲載された記事に「コーランは書き換えられるべきである」と書いたために、大規模な抗議デモが各地で行われ、ナスリンはコーランではなくイスラム法(シャリーア )に対する批判だと説明したが、デモは勢いを増すばかりで、過激派からは死刑 を求める声が上がり、さらに2件のファトワーが出された。ナスリンは逮捕され、世界各国のメディアが大々的に報じた[ 3] 。逮捕の理由は、コーランに関する彼女の発言が刑法第295 a条に定める冒涜にあたるということであった。刑法第295 a条には、「バングラデシュ市民のなかのいかなる集団の宗教感情についても、それを侮辱しようという計画的であからさまな悪意をもって、発言や文書など、あきらかに認識しうる表現によって、宗教や信仰を侮辱した者、あるいは侮辱しようとした者は、2年以下の懲役か罰金、あるいはその両方に処する」と規定されている[ 4] [ 5] 。
亡命生活
最終的には保釈が認められ、パスポートも没収されずに済んだため、数日後に出国。スウェーデン に亡命した。同年(1994年 )、欧州議会の思想の自由のためのサハロフ賞 、フランス政府 の人権賞、スウェーデン・ペンクラブ のクルト・トゥホルスキー 賞など欧米諸国から7つの賞を受けた(以下「受賞・栄誉」参照)。
ナスリンは以後もフェローシップ を受けるなどして精力的に執筆活動を続け、1997年 からは自伝を書き始めた。ほとんどの著書をベンガル語 で書いたため、バングラデシュで出版されても発禁 になり、さらに2002年 には、これまでに発表した複数の著書にイスラム教を侮蔑する表現があるとして懲役 1年を言い渡された。この間に書かれたテクストは後にフランスで『私の監獄から (De ma prison )』として出版された (Philippe Rey, 2008)[ 6] [ 7] 。
2003年 にはハーバード大学 からフェローシップを受け、寛容と非暴力促進のためのユネスコ ・マダンジェート・シン賞を受賞する一方で、ベンガル語で発表した『引き裂かれて (Dwikhandito )』は、西ベンガル州 政府により発禁処分を受け、さらにバングラデシュとインドの2人の男性作家から名誉毀損 にあたるとして約400万ドルの損害賠償 を請求された[ 6] [ 8] 。これ以後も、欧米諸国からはイスラム教による女性差別を告発する活動や表現の自由のための闘いに対する支援を受け、バングラデシュ、西ベンガル州、インドでは発禁や訴訟が相次いだ。2010年 、カルナータカ州 (インド )で、ある新聞社がナスリンのコラムを無断で転載した。ブルカ は女性の抑圧の象徴であり、着用すべきではないという内容であった。1万5千人のイスラム教徒がこの記事に抗議し、新聞社に放火した。2人が死亡し、夜間外出禁止令 が出された[ 6] [ 9] 。
ナスリンはこの間、スウェーデンに滞在しながら、世界各国から招待を受け、人権、女性の権利、世俗主義、表現の自由等について講演会を行った。いったんドイツ に移住した後、再びスウェーデンに戻り、政治難民 として国際連合の渡航文書 (通行許可証、レセ・パセ)を受けた。1998年から米国に滞在したが、母が病に倒れたことを知り、バングラデシュ政府に入国許可を求めたが拒否されたため、難民の地位を取り消し、渡航文書を返却することでバングラデシュのパスポートを返却され、入国した。しかし、ナスリンはイスラム過激派組織(国際テロ組織 )ハルカトゥル・ジハーディ・イスラミ・バングラデシュ[ 10] に狙われていた。そして今回もまた宗教的感情を害したとして、保釈不可の逮捕状が出され、3か月後には出国を余儀なくされた[ 6] 。フランスの『レクスプレス (フランス語版 ) 』紙のインタビューに応えて、「医者であるにもかかわらず最期まで母の面倒を見ることができなかったこと、愛を返せなかったこと」が何よりも辛いと繰り返し語っている[ 11] 。
フランスに一時滞在した後、ようやく6年前に申請したインドのビザが下り、コルカタ に滞在。著書の発売のためにムンバイ を訪れたかったが、ここでもまたイスラム過激派の脅迫を受けた。2002年 、瀕死の父に会うために、再びバングラデシュ政府に入国許可を求めたが拒否され、父を看取ることができなかった。以後もナスリンに対するファトワーが度々出され、文化企画やブックフェアでインドや西ベンガル州の大学等から招待を受けても、そのたびにイスラム過激派に阻止または攻撃され、実質的に軟禁状態であった。インドのビザの更新についても、報道機関の取材に応じないこと、即出国することなど厳しい条件を課された[ 6] [ 12] 。
2010年グローバル無神論者代表者会議 (メルボルン ) で演説するタスリマ・ナスリン
2008年 1月、シモーヌ・ド・ボーヴォワール 生誕100年を記念して設立された「女性の自由のためのシモーヌ・ド・ボーヴォワール賞 」の第1回受賞者に選出され、パリ でラマ・ヤド 人権担当閣外相により手渡された[ 13] 。また、同年7月にはパリ市名誉市民 の称号を受け[ 14] 、翌2009年 にはこの資格により、ベルトラン・ドラノエ 市長の招きに応じて6か月間、パリに滞在した[ 15] 。
2013年 5月23日、フランス・ユネスコで開催された世界中の自由な移動のための「世界市民連合 (OCU)」に参加し、「世界市民パスポート」を取得した[ 16] 。
2015年 、政教分離 の推進を目指す米国の無神論 ・不可知論 団体「宗教からの自由財団 (FFRF )」から「裸の王様 」賞を受けた[ 17] 。
受賞・栄誉
(公式ウェブサイトのAwardsによる[ 18] )
欧州議会 の思想の自由のためのサハロフ賞 (1994)
フランス政府の人権賞 (1994)
フランスのナント勅令 賞 (1994)
スウェーデン・ペンクラブのクルト・トゥホルスキー 賞 (1994)
ヒューマン・ライツ・ウォッチ のヘルマン・ハメット賞(助成金) (1994)
ノルウェーの人権倫理協会の人道主義賞 (1994)
米国フェミニスト・マジョリティ財団の「フェミニスト・オブ・ザ・イヤー」賞 (1994)
ゲント大学 (ベルギー)の名誉博士号 (1995)
ドイツ学術交流会 (DAAD) の奨学金 (1995)
ウプサラ大学 (スウェーデン)のMonismanien賞
国際ヒューマニスト倫理連合(英国)のヒューマニスト殊勲賞 (1996)
国際ヒューマニズム・アカデミー(米国)のヒューマニスト賞 (1996)
インドの阿難 (アーナンダ)文学賞 (2000)
世界経済フォーラム の次世代のグローバル・リーダー (2000)
国際非宗教・無神論連盟 (IBKA) のエルヴィン・フィッシャー賞 (2002)
米国の宗教からの自由財団 (FFRF) の自由思想ヒロイン賞 (2002)
ハーバード大学 のジョン・F・ケネディ・スクール・オブ・ガヴァメント(旧ケネディスクール )の人権政策カー・センターのフェローシップ (2003)
寛容と非暴力促進のためのユネスコ ・マダンジェート・シン賞 (2004)
パリ・アメリカ大学 (AUP) の名誉博士号 (2005)
国際コンドルセ・アロン・グランプリ (2005)
サラト・チャンドラ 文学賞(西ベンガル州、インド, 2006)
パリ名誉市民 (2008)
女性の自由のためのシモーヌ・ド・ボーヴォワール賞 (2008)
ニューヨーク大学 のフェローシップ (2009)
米国のウッドロウ・ウィルソン ・フェローシップ (2009)
米国のフェミニスト・プレス賞 (2009)
リヨン 市の名誉勲章 (フランス、2009)
ビルバオ (スペイン)のセラーノ・プロダクションの「検閲 との闘い」賞 (2009)
ルーヴァン・カトリック大学 (ベルギー)の名誉博士号 (2011)
エシュ=シュル=アルゼット (ルクセンブルク)の名誉市民 (2011)
メス (フランス)の名誉市民 (2011)
ティオンヴィル (フランス)の名誉市民 (2011)
パリ・ディドロ大学(第七大学) の名誉博士号 (2011)
世界市民連合(フランス)の世界市民パスポート (2013)
ベルギー王立科学・文学・美術アカデミーのアカデミー賞 (2013)
スウェーデンのインゲマール・ヘデニウス賞 (2014)
米国の宗教からの自由財団 (FFRF) の「裸の王様」賞 (2015)
著書
(公式ウェブサイトのBooksによる[ 19] )
詩集
Shikore Bipul Khudha (社会に根を張る飢餓), 1982
Nirbashito Bahire Ontore (内外からの追放), 1989
Amar Kichu Jay Ashe Ne (何も気にしない), 1990
Atole Ontorin (奈落の底), 1991
Balikar Gollachut (少女の手袋/少女の闘い), 1992
Behula Eka Bhashiyechilo Bhela (ベフラはひとり、筏で漂う), 1993
Ay Kosto Jhepe, Jibon Debo Mepe (痛みの轟き、あなたに私の人生を分け与える), 1994
Nirbashito Narir Kobita (亡命詩集), 1996
Jolpodyo (水連), 2000
Khali Khali Lage (空の空なる哉), 2004
Kicchukhan Thako (好奇心/短期滞在), 2005
Bhalobaso? Chai baso (あなたの愛、またはゴミの山), 2007
Bondini (囚人), 2008
随筆集
Nirbachito Column (コラム選集), 1990
Jabo na keno? jabo (もちろん、行きます), 1991
Noshto meyer noshto goddo (打ちのめされた少女は破滅する), 1992
ChoTo choTo dukkho kotha (ちっぽけな悲話), 1994
Narir Kono Desh Nei (女には国がない), 2007
Nishiddho (禁断), 2014
Taslima Nasreener Godyo Podyo (タスリマ・ナスリン散文詩), 2015
小説
Oporpokkho (敵対者), 1992
Shodh (返済), 1992
Nimontron (招待), 1993
Phera (帰還), 1993
Lajja (恥), 1993
Bhromor Koio Gia (丸花蜂はどこへ行った/彼に秘密を告げて), 1994
Forashi Premik (フランスの恋人), 2002
Shorom (労働/再び恥), 2009
短編集
Dukkhoboty meye (悲しい少女), 1994
Minu (ミヌ), 2007
自伝
Amar Meyebela (私の義娘/私の少女時代), 1997
Utal Hawa (吹き荒ぶ風), 2002
Ka (誰が/歯に衣着せぬ), 2003 (当初、Dwikhandito (引き裂かれて) として発表)
Sei Sob Andhokar (あの暗黒の日々), 2004
Ami Bhalo Nei, Tumi Bhalo Theko Priyo Desh (私はダメだけれど、あなたは私の愛する国), 2006
Nei, Kichu Nei (何もない), 2010
Nirbasan (国外追放), 2012
脚注
関連項目
外部リンク