神殿Oと神殿Aは、岩盤の基礎と紀元前490年から460年の間に建設された祭壇以外はほとんど残っていない。両者の構造は全く同一で、東側の丘にある神殿Eとも類似している。ペリスタイルは幅16.2メートル、長さ40.2メートルで、6 x 14 本の柱(高さ6.23メートル)で屋根が支えられていた。内部にはプロナオス(神殿の前室)とナオス(内陣)があった。ナオスはプロナオスから一段高くなっており、ナオスにはさらに一段高くなったアディトン(神像安置室)があった。神殿Aのナオスとプロナオスの間の壁には、2箇所の螺旋階段があり、上部のギャラリーに行けるようになっていた。神殿Aのプロナオスはモザイクとなっており、フェニキアの神であるタニト女神(en)の象徴、ケーリュケイオン、太陽、クラウン、ブクラニウム(雄牛の頭)が描かれており、カルタゴ時代の宗教的あるいは家庭的施設からの再利用が示唆される。神殿Oはポセイドンあるいはアテーナーに捧げられたものと思われる[35]。神殿Aはディオスクーロイまたはアポロ神殿である[35]。
神殿Aの34メートル東側には、アクロポリスへの堂々とした入り口が残っている。入り口はT型のフロアプランを持ったプロピュライア形式で、5 x 12の円柱配列からなるペリスタイルを持つ13 x 5.6メートルの長方形と、6.78 x 7.25メートルの長方形の部屋で構成されている。
東西に走る大通りを挟んで、最初の聖域とその北側に2番目の聖域がある。神殿Cの南側には、紀元前580年から紀元前570年頃に建設された17.65 x 5.5 メートルの「祭壇」がある。アルカイック形式のメガロン(en)はおそらくは神に捧げることを意図したものであろう。プロナオスは無く、東端の入り口は直接ナオスに繋がっている。後部には正方形のアディトンがあり、後日にはさらに第三の部屋が追加された。祭壇はデーメーテールに捧げられたものと思われる[36]。
神殿Bの平面図 (左上)と正方形の祭壇(Koldewey, 1899)
祭壇の右横にはヘレニズム期の神殿Bが建つ。神殿は8.4 x 4.6メートルと小さく、状態も悪い。この神殿はプロスタイル(前柱廊式)のポルチコを持ち、柱は4本で9段の階段があり、その奥にプロナオスとナオスがある。1824年には、まだ多色のスタッコが明瞭に視認できた。おそらくは紀元前250年前後に建設されたもので、セリヌスが放棄される直前のものである。紀元前409年にセリヌスは一旦破壊され、その後再建されてはいるが、この神殿はその間に建設された唯一の宗教施設である。その目的はあいまいである。以前にはセリヌスの湿地帯を資材を投げ打って改良したエンペドクレスのヘローン(廟)と信じられていたが[37]、現在では建設時期からその説は否定されている。現在ではヘレニズムの影響を受けたカルタゴの宗教、おそらくはデメテルかアスクレーピオス - エシュムン(en)の神殿と推定されている。
神殿C神殿Cの平面図
神殿C(en)はこの地区では最も古く、紀元前550年に建設されたものである。1925年-27年にかけて北側の17本の円柱のうち14本が、エンタブラチュアの一部と共に再建されている。24 x 63.7メートルのペリスタイルと 6 x 17の円柱配列(高さ8.62メートル)を持つ。階段を8段上ると2列目の柱を持つポルチコに達し、プロナオスにつながる。その背後には、ナオスとアディトンが細長い単一の構造体として設けられている(アルカイック形式の特徴である)。これは基本的には東の丘の神殿Fと同じフロアプランである。典型的なドーリア式神殿からいくつかの実験的試みあるいは変更が行われているが、それらは後には標準的なものとなっている:円柱は太くて巨大であり(何本かは一つの石材で作られている)、エンタシスは無く、円柱の溝の数にはバリエーションがあり、柱間幅も変わり、四隅の円柱は他のものより直径が大きい、等である。この神殿から発見された遺物には:コーニスの装飾に使われていた赤、茶色、紫の多色テラコッタの一部、ペディメントを飾っていた高さ2.5メートルのゴルゴンの頭、ゴルゴンを倒すペルセウスを意味する3つのメトープ、ケエルコプスを捕らえたヘラクレス、アポローンのカドリーガ(4頭立ての戦車)の正面図、などがある。これらは全てパレルモの考古学博物館に展示されている。碑文から全てアポローンのもの[38]、あるいはヘラクレス[39]に捧げられた数百の印章が発見されていることから、神殿Cはおそらく収蔵庫として使われていたと思われる。
次の神殿Dは紀元前540年に建設されている。西面は南北に走る大通りに面している。ペリスタイルは24メートル x 56メートルで、6 x 13本の円柱配列(高さ7.51メートル)を持つ。プロナオスはイン・アンティス形式で、細長いナオスがあり、一番奥にアディトンがある。神殿Dは神殿Cより標準化されているが(円柱はやや傾いており、より細く、エンタシスを持っている)、円柱間の長さおよびその直径が一定でないこと、円柱に溝の数などアルカイック様式の特徴もある。神殿Cと同様に、ナオスとペリスタイルの舗装には多数の円形または四角形の窪みがあるが、これらの目的は不明である。その碑文から、神殿Dはアテーネーに捧げられたものと思われるが[38]、アプロディーテーの可能性もある[40]。外部の大きな祭壇の向きは、神殿の軸とは一致しておらずが、南西の角にずれて位置している。このことから、かつては同じ場所に古い神殿が違う向きで建っていたことを示唆している。
アクロポリスの北側のマヌッツァ丘の現代の道路は、巨大な台形をした古代のアゴラの境界を巡っていると思われる。全体が住居区域でヒッポダモス式の都市計画に従っており(航空写真による再現)、アクロポリスの向きと比較すると、やや傾いている。インスラ(街区)は190 x 32メートルと南北に細長く、元々は壁で囲まれていた。この地域の系統的な発掘は行われていないが、何回かの試掘の結果、セリヌスの建設時点(紀元前7世紀)から住居地域として使われており、すなわち街の規模が後日に拡大したものではないことが確認された。
神殿E(en)はこの三つの中で最も新しく、紀元前460年-紀元前450年頃に建設されており、アクロポリスの神殿Aと神殿Oとの類似性が高い。現在の姿は1956年から1959年にかけて実施されたアナストリシス(en、オリジナルの素材を用いた修復)の結果である。ペリスタイルは 25.33 x 67.82 メートル、6 x 15本の円柱配置(高さ10.19メートル)で、外観化粧用のスタッコの跡が多く残っている。神殿の各部屋の高さがそれぞれ変わるという特徴を有している。10段の階段を登ると東側の入り口がある。イン・アンティス形式のプロナオスに続き、6段の階段を登ってナオスに入る。ナオスの背後のアディトンまでにはさらに6段の階段がある。アディトンの背後には、壁で隔てられてイン・アンティス形式のオピストドモス(宝物庫)がある。ナオスの壁の上方のドーリア式のフリーズには人を描写したメトープがある。顔および女性の肌が露出した部分は高級な純白のパリアン大理石(en)で作られており、残りの部位は地元産の石材が使われている。
神殿F(en)は最も古く、最も小さな神殿で紀元前550年から紀元前540年の間に、神殿Cをモデルとして建てられた。3つの神殿の中では最もひどく略奪されている。ペリスタイルは24.43 x 61.83メートル、6 x 14の円柱配置(高さ9.11メートル)で、円柱の間のスペースに石の遮蔽物(高さ4.7メートル)があり、そこに付け柱と台輪を有する偽のドアが描かれている。実際の入り口は東端にある。この遮蔽物の目的は不明である、ギリシア神殿の中では珍しい。奉献物を守り、特定の儀式(ディオニソスの密議など)を意図しない人物から見られないようにするための物ではないかと考える者もいる。内側には円柱の第2列が立つポルチコと、プロナオス、ナオス、アディトンが細い単一の構造物の中にある(アルカイック期の形式である)。
現在は瓦礫となっているが、本来は8 x 17の円柱(高さ16.27メートル、直径3.41メートル)配置のペリスタイルで、1832年に修復された1本の円柱みが立っている。この柱はシチリア語で“lu fusu di la vecchia”(古代の柱の場所)と呼ばれている。プロナオスは前面に四本の円柱を並べたプロステュロス形式である。ナオスは最後部が付け柱となったアンタエ(壁端柱)で仕切られており、プロナオスからは前面3箇所の扉で出入りする。ナオスは非常に大きく、上部は開放されており、3本の廊下で分けられていた。両側は各階が10本の細い支柱で支えられた3階建ての屋根つきギャラリーで、天井室につながる二つの並行した階段があった。中央の廊下には屋根が無かったと思われる。中央廊下の後部にはアディトンがあり、壁でナオスと仕切られている。アディトン内部からは傷ついたあるいは瀕死の巨人の胴体と、「セリヌスの大テーブル」として知られる重要な碑文が発見されている。後部には、イン・アンティス形式のオピストドモス(宝物室)があり、ナオスからは直接出入りできないようになっている。遺跡の中で特に注目すべきは、スタッコで化粧された何本かの完成した円柱と、側部に蹄鉄型の溝を持ったエンタブラチュアのブロックである。この溝にロープをかけてエンタブラチュアを引き上げた。神殿Gは都市の宝物庫として機能し、碑文からはアポローンに捧げられたものと思われるが、最近の研究ではゼウスの神殿とも示唆されている。
ガッゲラ丘の上には、1874年から1915年にかけて発掘された、豊穣の女神デメテールに捧げられた非常に古い聖域があり、現在でも上空からのでその痕跡がはっきりと確認できる[45]。この複合体の保存状態は様々であるが、紀元前6世紀に丘の斜面に建造されており、おそらくはマニカルンガのネクロポリスが作られる以前には葬儀場所として用いられていたと思われる。当初、この場所には建物はなく、宗教儀式の祭壇として使用された広場であった。その後神殿が建てられ、周囲を高い壁で囲って、聖域(テメノス)に転換された。テメノスは60 x 50メートルの長方形の壁で囲われた領域で、東側にイン・アンティス形式の長方形のプロピュライア(紀元前5世紀に建築)があり、そこから内部に入るようになっていた。プロピュライアの北側、壁の外側には壁に沿って巡礼者のための椅子がある長い屋根付きポルチコ(ストア)があった。テメノス内部には、中央に大きな祭壇(16.3 x 3.15メートル)があり、その上には生贄の骨等の灰が高く積みあがっていた。テメノスの奥側(西側)にはメガロン形式(20.4 x 9.52メートル)のデメテール神殿があり、クレピドーマ(en、階段状の基壇)や円柱は無いものの、プロナオス、ナオス、後部に壁龕を持つアディトンを有する。プロナオスの北側には長方形のサービスルームが取り付けられている。神殿の南側には、用途不明の正方形および長方形の構造物がある。祭壇と神殿の間には、近くの泉から聖域に水を供給るための、岩を彫った用水路が北側から流れている。用水路と祭壇の間に正方形の窪みがある。壁の北側には、後世に建てられた、テメノスの外側と内側が開放された二つの部屋を持つ建造物があり、これが第二の入り口として機能していた。南西方向に拡張部があり、その端には前アルカイック期の祭壇の残存が認められる。南側の壁は斜面の地盤沈下に対応するために何度も補修されている。プロピュライアの南側、即ちテメノスの南東部にはそれと隣接してヘカテー女神専用のテメノスがあった。このテメノスは正方形で、入り口近くの東の角に神殿があり、南西の角には目的不明の舗装された正方形のスペースがある。
北側15メートルには、ゼウス・メリキオス(シケリアの地方信仰で、優しいゼウスという意味)およびパシクラテイア(ペルセポネー)に捧げられた別の正方形(17 x 17メートル)のテメノスがあり、かなりの遺物が残っているが、紀元前4世紀末に建てられた建造物を正確に推定するのは困難である。周囲を囲む壁と、様々な種類の支柱が両側にあり、小規模(5.22 x 3.02メートル)のイン・アンティス形式のプロスタイルを持った神殿が後方にある。この神殿の支柱はドーリア式であるが、エンタブラチュアはイオニア式である。
^ abcSabatino Moscati, Italia archeologica, Novara, De Agostini, 1973, vol. 1, pp. 120-129
^ abcFilippo Coarelli; Mario Torelli, Sicilia (Guide archeologiche Laterza), Bari, Laterza, 1988, pp. 72-103
^The name “Temple of Empedocles” was given to it in 1824 by the excavator, Hittorf, because he thought it had been dedicated to him for his good deed of draining the watery marshes of the Selinuntine rivers and thereby ending the frequent malaria epidemics