スミレツ(ブルガリア語: Смилец、Smilec、? - 1298年)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール、在位:1292年 - 1298年)。
ブルガリア貴族の出と考えられているが、彼の先祖は明確に判明していない。1292年に即位する前は兄弟のラドスラフ、ヴォイシルと共にバルカン山脈とスレドナ・ゴラ山脈にまたがる広い地域を支配していた。また東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の王族コンスタンティン・パレオロゴス(皇帝ミカエル8世パレオロゴスの兄弟)の娘スミレツナ[1]を妻とし、東ローマと婚姻関係を持っていた。
彼の即位の経緯については、ゲオルギ1世テルテルの退位後、ジョチ・ウルス西部の有力者ノガイの後ろ盾によって登位した一点を除いて、不明確である。そのため、彼の治世はブルガリアにおけるジョチ・ウルスの影響力が最も高い時期だったと考えられている。1297年から1298年にかけてモンゴル軍がブルガリアに侵入、進路上の村落が略奪される事件が起きるが、モンゴル軍の略奪が行われたのは東ローマ領への入り口となるトラキア地方であり、ブルガリア本国はモンゴルの攻撃対象からは外れていたと思われる。
1296年(あるいは1297年)に娘のテオドラをセルビアの王子ステファン(後のステファン・ウロシュ3世デチャンスキ)に嫁がせ、関係の強化を図った。他方セルビアによる自国の領土の併合を認め、セルビアがヴィディンを攻撃したときにも防衛に積極的な態度を示さなかった。
1298年、ノガイの子チャカの侵入の開始を境として、スミレツの名前は史書から見られなくなる。おそらくはチャカによって殺害された、あるいは抗戦中に病没したと思われる。死後、子のイヴァン(en:Ivan II of Bulgaria)が一時的に帝位に就くがイヴァン2世は幼く、事実上の最高権力者はスミレツナであった。スミレツナはセルビア王ステファン・ウロシュ2世ミルティンにブルガリア全土を持参金とした婚姻を持ちかけるが、実現には至らなかった。
スミレツはスミレツナとの間に三子をもうけた。
クブラト605-665 / バトバヤン665-668 / アスパルフ668-681
アスパルフ681-700頃 / テルヴェル700頃-721 / コルメシイ721-738 / セヴァル738-753
コルミソシュ753-756 / ヴィネフ756-760 / テレツ760-763 / サビン763-766 / ウモル766 / トクトゥ766-767 / パガン767-768 / テレリグ768-777
カルダム777-803 / クルム803-814 / ドクム814-815 / ディツェヴグ814 / オムルタグ814-831 / マラミル831-852 / プレシアン1世836-852 / ボリス1世852-889 / ヴラディーミル (ラサテ)889-893 / シメオン1世893-927 / ペタル1世927-967 / ボリス2世967-971 / ロマン972-997
サムイル976-1014 / ガヴリル・ラドミール1014-1015 / イヴァン・ヴラディスラフ1015-1018 / ペタル・デリャン(ペタル2世)(反乱指導者)1040-1041 / コンスタンティン・ボディン(ペタル3世)(反乱指導者)1072
東ローマ帝国支配1018年 - 1185年
ペタル4世1185/6-1187/90 / イヴァン・アセン1世1187/90-1196 / イヴァンコ1196 / ペタル4世(復位)1196-1197 / カロヤン・アセン1197-1207 / ボリル1207-1218 / イヴァン・アセン2世1218-1241 / カリマン1世1241-1246 / ミハイル2世・アセン1246-1256 / カリマン2世1256-1257 / コンスタンティン・ティフ1257-1277 / イヴァイロ1277-1279 / イヴァン・アセン3世1279-1280
ゲオルギ1世テルテル1280-1292
スミレツ1292-1298 / イヴァン2世1298-1299
チャカ1299-1300
テオドル・スヴェトスラフ1300-1322 / ゲオルギ2世テルテル1322-1323
ミハイル3世シシュマン1323-1330 / イヴァン・ステファン1330-1331 / イヴァン・アレクサンダル1331-1371 / イヴァン・シシュマン1371-1393 / イヴァン・スラツィミル(ヴィディン公)1356-1396 / コンスタンティン(2世)(ヴィディン公)1396-1422
オスマン帝国支配1396年 - 1878年
アレクサンダル1879-1886
フェルディナント1887-1908
フェルディナント1908-1918 / ボリス3世1918-1943 / シメオン2世1943-1946